雨の記録係にされた日
父の爵位が消えた朝、雨が降っていた。
窓硝子を打つはずの雫は、ひとつも音を立てなかった。屋根を叩き、石畳を濡らし、庭の薔薇をうなだれさせているのに、私の耳にはただ、遠い鐘の余韻だけが残っている。
「また聞こえているのか」
食堂の隅で、父が古びた封蝋を指で潰した。
私は返事をせず、机の上に広げた帳面へ目を落とした。雨の気配は音ではない。空気の震えの隙間に、細い糸のように混じっている。強い雨なら低く、霧雨なら高く、雪まじりなら、紙を爪で擦るようなざらつきがある。
今朝の雨は、妙だった。
雫の数は多い。けれど地面へ届く前に、何かに吸い込まれているように音のない層があった。私はそれを、幼いころから聞き分けてきた。
「王都からの通達だ」
父は封書を卓上へ置いた。
「領地の水路修繕費を、我が家が横領したと認定された。爵位も屋敷も、今日限りだ」
「横領など、していません」
「知っている」
父の声は疲れていた。知っているのに、証明できない。王都の役人が持ってきた記録には、父の印章が押され、支出の数字が並んでいた。数字は正しかった。だからこそ、どこにも反論の隙がなかった。
母はもう荷造りを始めている。兄たちは遠い親類を頼る相談をしていた。私の婚約者、アルベールからは、昨夜のうちに一枚の手紙が届いていた。
『家格の変動に伴い、婚約を解消する』
紙面に並んだ文字は冷たく、雨よりも静かだった。
父が別の封筒を差し出した。
「おまえには王都から新しい働き口が与えられた」
「働き口?」
「辺境の水路管理所だ。雨量記録係。下働きに近い役目だが、衣食住は保証される」
私は封筒を開いた。辞令の最後に、見慣れた印があった。王都水利院。父の横領を告発した部署と同じ印だ。
「なぜ私に」
「おまえが雨を聞くからだろう」
父は苦笑した。
「昔は異能だと喜んでいたのに、今では気味が悪いと笑われる。だが、水路を扱う者にとって、役に立つこともあるらしい」
異能。
その言葉を聞くたび、胸の奥に小さな棘が刺さる。幼いころ、私は雨の音を当てて家族を驚かせた。けれど社交界では、見えないものを聞く娘として、面白がられ、そして避けられた。
それでも私は辞令を折りたたんだ。
「行きます」
父が顔を上げる。
「リゼット」
「ここに残っても、私には何もできません。なら、できることを探します」
荷物は小さな鞄ひとつだった。母が最後に、刺繍の施された手袋を押し込んだ。兄たちは見送りに出ず、父だけが門前まで来た。
馬車が動き出すと、屋敷の尖塔が雨の向こうへ沈んでいった。
三日後、私はグレイヴ水路管理所へ着いた。
辺境という言葉から、荒れた土地を想像していた。実際、道の両脇にはひび割れた畑が続き、井戸の周りには空の桶を抱えた人々が列を作っていた。雨は降っている。それなのに、誰も喜んでいない。
管理所は崖の下に建つ、石造りの低い建物だった。門を叩くと、作業服姿の男が現れた。
「新しい記録係か」
「リゼット・エルンです」
「名前はどうでもいい。帳簿を汚すな。字が読めるなら、指示された通りに書け」
男は私の鞄を見て、鼻で笑った。
「貴族のお嬢様が泥水に触れられるのかね」
「触れなければ、記録できません」
男の笑みが消えた。
「口だけは立派だ。記録室は奥だ。責任者はノア。無口で愛想がない。仕事を教えてもらえると思うな」
奥の作業場には、ひとりの青年がいた。
濡れた黒髪を後ろで束ね、古い水路図を机いっぱいに広げている。袖をまくった腕には、油と泥の跡があった。私が近づいても、青年は顔を上げなかった。
「ノアさん?」
「……そこに辞令を」
低い声だった。
私は紙を置いた。彼は一度だけ私を見た。灰色の瞳が、身分も服も一瞬で測るように動いた。
「今日から雨量の記録を」
「方法は知っています」
「なら、雨桶へ。目盛りを読んで、時刻と量を書いてください」
「過去の記録は?」
尋ねると、彼の指が地図の上で止まった。
「必要ありません」
答えが早すぎた。
私は記録室へ入り、棚に並ぶ帳簿を見た。十年分の記録があるはずなのに、最も古い棚だけ、鍵がかかっている。
窓の外で、また雨が降り始めた。
音はない。
けれど今度は、地面へ落ちる前に流れを変えられた雨の音がした。誰かが水路の分岐を閉じている。自然に起きた雨ではない。水が、どこかへ隠されている。
私は窓を開けた。
遠くの畑から、女の叫び声が聞こえた。
「また水が来ない!」
ノアが初めて、こちらを振り返った。
その顔には驚きではなく、警戒が浮かんでいた。
「何を聞いた」
「雨の行き先です」
「雨に行き先などない」
「あります。少なくとも、この町では」
私は濡れた窓枠に手を置いた。冷たい水が指先を伝う。
爵位も、婚約も、家も失った。けれど、雨まで誰かに奪われたのなら、私はそれを記録する。
その日、私は下働きとして水路管理所に送られた。
そして同時に、誰も読もうとしなかった水の記録を、初めて読むことになった。




