明日の証拠を守る
王都へ向かう道は、雨上がりの土に覆われていた。
私たちは夜明け前に管理所を出た。荷馬車には、崩れた堰から見つかった木箱、配水図の写し、補修費の帳簿、村人たちの証言を記した記録が積まれている。水路管理所の印を押した書類だけでなく、濡れた泥の跡が残る布や、折れた鉄具まで載せた。
数字だけでは、誰かが「誤記だ」と言える。
けれど、壊れたものの重さや、水を待ち続けた人の声まで消すことはできない。
「眠っていないな」
向かいに座るノアが言った。
「あなたもです」
「俺はいつも眠りが浅い」
「それは自慢になりません」
彼はわずかに口元を緩めた。けれど、手は膝の上で固く握られていた。
王都へ近づくにつれて、道は広くなった。石造りの橋を渡る馬車が増え、商人たちの声が聞こえる。王都の塔が遠くに見え始めた頃、アーヴェルが御者台から振り返った。
「検問です」
道の先に、配水局の紋章をつけた男たちが立っていた。
先頭の役人が手を上げる。
「公開審査に提出する資料を確認する。王命によるものだ」
「審査院からの正式な通行許可証はあります」
私は封蝋のついた書状を見せた。
「資料の確認は、審査の場で行われるはずです」
「疑われるようなことでもあるのか」
役人は笑ったが、目は笑っていなかった。
ノアが馬車から降りた。
「これは王都の審査院へ提出する公文書だ。権限のない者が開封すれば、改竄の疑いを受ける」
「身分をわきまえろ、技師風情が」
男の一人がノアの肩を押した。
空気が凍った。
以前のノアなら、相手を見下すように睨み返しただろう。けれど彼は一歩下がり、私を見た。
判断を求める目だった。
「アーヴェル」
「はい」
「検問の様子を記録してください。時刻、人数、発言、荷物に触れようとした者の名前も」
アーヴェルはすぐに帳面を開いた。
「記録します」
役人たちの表情が変わった。
「勝手に書くな!」
「書かれて困ることがなければ、問題はありません」
私はそう答えた。
役人はしばらく私たちを睨んでいたが、やがて道を空けた。馬車が動き出しても、背中に視線が突き刺さっているのが分かった。
王都の宿に着いたのは昼過ぎだった。審査院が手配した宿ではなく、アーヴェルが以前から知っている小さな旅籠だった。表通りから外れていて、窓は狭く、壁は厚い。
「安全を優先しました」
アーヴェルが言う。
「配水局の宿なら、資料が先に消える可能性があります」
その言葉を聞いた瞬間、私は荷馬車の中へ戻った。
木箱を開け、書類を一枚ずつ確かめる。地図、命令書、補修費の帳簿。どれも残っていた。
しかし、箱の底に敷いた布が濡れている。
「これは、さっきまでありませんでした」
ノアが布を持ち上げた。水滴が落ちる。
私は目を閉じた。
雨は降っていない。水路から離れたここで、木箱の内側だけが濡れる理由はない。
「箱の底です」
耳を澄ますと、かすかな音がした。水が木の中を通る音ではない。瓶の中で液体が揺れている。
ノアが底板を外すと、小さな陶器の瓶が隠されていた。
「油です」
アーヴェルが眉をひそめた。
蓋は閉じていたが、瓶の周囲に油が漏れている。もし火のそばで倒されていたら、木箱ごと燃えていただろう。資料を焼くために仕込まれたものだ。
ノアは瓶を見つめた。
「宿へ運ぶ途中で、荷物を燃やすつもりだった」
「証拠がなくなれば、彼らは水路図をただの偽造品だと言えます」
私は瓶を布で包み、別の箱へ移した。
「明日の朝まで、資料を分けて保管します。原本は一か所に置かない。写しは今夜、審査院へ届けます」
「夜間に受け取ってもらえるでしょうか」
「受け取らせます」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
夕暮れ、近隣の村から来た証人たちが宿へ集まった。水を分けられた農夫、補修費を受け取れなかった石工、古い水路を覚えている老人。彼らは王都の大きさに怯え、何度も言葉を詰まらせた。
「忘れても、帳面には残っています」
私は一人ずつの話を聞き、日付と場所を確認した。
ノアは壁際で、彼らの発言を整理していた。以前なら自分が正しいと思う順番に人を並べただろう。今は、話す者が話しやすい順に記録を作っている。
「ノア、この証言は補修費の帳簿とつながります」
「分かっている。石工の名前を先に置く。支払いを受けていない事実が、申請書の金額と一致する」
「私もそう思います」
彼は一瞬、私を見た。
「君に確認したかった」
夜が深くなった頃、審査院から封書が届いた。
公開審査は予定どおり、明日の正午に開かれる。ただし、提出資料は朝の鐘が鳴るまでに審査院へ持ち込むこと。遅れたものは参考資料として扱い、正式な証拠とは認めない――そう書かれていた。
明け方まで、あと数時間しかない。
窓の外で、遠くから水の音がした。
王都の地下を流れる水路だ。音は低く、重く、いくつもの流れが重なっている。その奥に、閉じた水門の響きが混じっていた。
私は立ち上がった。
「どうした」
ノアが尋ねる。
「審査院へ行く道の下に、水路があります」
「王都の地下水路か」
「今、誰かが水門を動かそうとしている」
彼はすぐに外套を取った。
「確かめるのか」
「明日の証拠を守るには、記録だけでは足りません。今夜、何が起きているかも見届けます」
ノアは頷いた。
「隣にいる」
私たちは灯りを消し、裏口から夜の王都へ出た。遠くで鐘が鳴る。地下では、水が行き場を失った音が、石壁を震わせていた。




