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雨音を数える令嬢は、辺境技師と明日の水路をひらく  作者: 銀細工ナギ


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17/20

明日の証拠を守る

 王都へ向かう道は、雨上がりの土に覆われていた。


 私たちは夜明け前に管理所を出た。荷馬車には、崩れた堰から見つかった木箱、配水図の写し、補修費の帳簿、村人たちの証言を記した記録が積まれている。水路管理所の印を押した書類だけでなく、濡れた泥の跡が残る布や、折れた鉄具まで載せた。


 数字だけでは、誰かが「誤記だ」と言える。


 けれど、壊れたものの重さや、水を待ち続けた人の声まで消すことはできない。


「眠っていないな」


 向かいに座るノアが言った。


「あなたもです」


「俺はいつも眠りが浅い」


「それは自慢になりません」


 彼はわずかに口元を緩めた。けれど、手は膝の上で固く握られていた。


 王都へ近づくにつれて、道は広くなった。石造りの橋を渡る馬車が増え、商人たちの声が聞こえる。王都の塔が遠くに見え始めた頃、アーヴェルが御者台から振り返った。


「検問です」


 道の先に、配水局の紋章をつけた男たちが立っていた。


 先頭の役人が手を上げる。


「公開審査に提出する資料を確認する。王命によるものだ」


「審査院からの正式な通行許可証はあります」


 私は封蝋のついた書状を見せた。


「資料の確認は、審査の場で行われるはずです」


「疑われるようなことでもあるのか」


 役人は笑ったが、目は笑っていなかった。


 ノアが馬車から降りた。


「これは王都の審査院へ提出する公文書だ。権限のない者が開封すれば、改竄の疑いを受ける」


「身分をわきまえろ、技師風情が」


 男の一人がノアの肩を押した。


 空気が凍った。


 以前のノアなら、相手を見下すように睨み返しただろう。けれど彼は一歩下がり、私を見た。


 判断を求める目だった。


「アーヴェル」


「はい」


「検問の様子を記録してください。時刻、人数、発言、荷物に触れようとした者の名前も」


 アーヴェルはすぐに帳面を開いた。


「記録します」


 役人たちの表情が変わった。


「勝手に書くな!」


「書かれて困ることがなければ、問題はありません」


 私はそう答えた。


 役人はしばらく私たちを睨んでいたが、やがて道を空けた。馬車が動き出しても、背中に視線が突き刺さっているのが分かった。


 王都の宿に着いたのは昼過ぎだった。審査院が手配した宿ではなく、アーヴェルが以前から知っている小さな旅籠だった。表通りから外れていて、窓は狭く、壁は厚い。


「安全を優先しました」


 アーヴェルが言う。


「配水局の宿なら、資料が先に消える可能性があります」


 その言葉を聞いた瞬間、私は荷馬車の中へ戻った。


 木箱を開け、書類を一枚ずつ確かめる。地図、命令書、補修費の帳簿。どれも残っていた。


 しかし、箱の底に敷いた布が濡れている。


「これは、さっきまでありませんでした」


 ノアが布を持ち上げた。水滴が落ちる。


 私は目を閉じた。


 雨は降っていない。水路から離れたここで、木箱の内側だけが濡れる理由はない。


「箱の底です」


 耳を澄ますと、かすかな音がした。水が木の中を通る音ではない。瓶の中で液体が揺れている。


 ノアが底板を外すと、小さな陶器の瓶が隠されていた。


「油です」


 アーヴェルが眉をひそめた。


 蓋は閉じていたが、瓶の周囲に油が漏れている。もし火のそばで倒されていたら、木箱ごと燃えていただろう。資料を焼くために仕込まれたものだ。


 ノアは瓶を見つめた。


「宿へ運ぶ途中で、荷物を燃やすつもりだった」


「証拠がなくなれば、彼らは水路図をただの偽造品だと言えます」


 私は瓶を布で包み、別の箱へ移した。


「明日の朝まで、資料を分けて保管します。原本は一か所に置かない。写しは今夜、審査院へ届けます」


「夜間に受け取ってもらえるでしょうか」


「受け取らせます」


 自分でも驚くほど、声は静かだった。


 夕暮れ、近隣の村から来た証人たちが宿へ集まった。水を分けられた農夫、補修費を受け取れなかった石工、古い水路を覚えている老人。彼らは王都の大きさに怯え、何度も言葉を詰まらせた。


「忘れても、帳面には残っています」


 私は一人ずつの話を聞き、日付と場所を確認した。


 ノアは壁際で、彼らの発言を整理していた。以前なら自分が正しいと思う順番に人を並べただろう。今は、話す者が話しやすい順に記録を作っている。


「ノア、この証言は補修費の帳簿とつながります」


「分かっている。石工の名前を先に置く。支払いを受けていない事実が、申請書の金額と一致する」


「私もそう思います」


 彼は一瞬、私を見た。


「君に確認したかった」


 夜が深くなった頃、審査院から封書が届いた。


 公開審査は予定どおり、明日の正午に開かれる。ただし、提出資料は朝の鐘が鳴るまでに審査院へ持ち込むこと。遅れたものは参考資料として扱い、正式な証拠とは認めない――そう書かれていた。


 明け方まで、あと数時間しかない。


 窓の外で、遠くから水の音がした。


 王都の地下を流れる水路だ。音は低く、重く、いくつもの流れが重なっている。その奥に、閉じた水門の響きが混じっていた。


 私は立ち上がった。


「どうした」


 ノアが尋ねる。


「審査院へ行く道の下に、水路があります」


「王都の地下水路か」


「今、誰かが水門を動かそうとしている」


 彼はすぐに外套を取った。


「確かめるのか」


「明日の証拠を守るには、記録だけでは足りません。今夜、何が起きているかも見届けます」


 ノアは頷いた。


「隣にいる」


 私たちは灯りを消し、裏口から夜の王都へ出た。遠くで鐘が鳴る。地下では、水が行き場を失った音が、石壁を震わせていた。

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