崩れた堰と最後の夜
使者はしばらく、誰もいない空を見上げていた。
王命という言葉が、村人たちの前では以前ほどの力を持たないことに気づいたのだろう。彼の背後で、兵たちが落ち着かない様子で槍を握り直している。水路の向こうからは、戻り始めた水の音が聞こえていた。
「書類を渡さぬなら、管理所を封鎖する」
使者が言った。
「封鎖するのは、審査の証拠ですか。それとも水ですか」
問い返すと、彼は口を閉ざした。
その時、南の方角から大きな音が響いた。
地面の下で岩が割れたような音だった。続いて、水が一斉に騒ぎ始める。水路の水面が跳ね、堤の草が揺れた。
「堰が崩れた!」
誰かが叫んだ。
私は音の方へ走った。ノアもすぐ隣を駆けている。使者や兵たちも、状況を確かめるために後を追った。
南の分岐点には、古い石堰があった。長年の補修で継ぎはぎになり、ひび割れを鉄の留め具で押さえていた堰だ。そこへ、昨夜せき止められていた水が流れ込んでいた。
石の中央が大きく沈み、水が白い泡を立てて噴き出している。
「このままでは下流の家が流されます」
ノアが堰を見上げた。
「右岸の水門を閉じれば、流れは弱まります。ただし、村へ戻った水も止まります」
私は目を閉じた。
音のない雨を聞き分ける時と同じように、水の重なった音を探した。崩れかけた石の奥で、細い流れが三つに分かれている。ひとつは南の村へ向かい、ひとつは古い排水溝へ、もうひとつは堰の下をえぐっていた。
「右岸を半分だけ閉じてください。全部では駄目です。排水溝を先に開ければ、堰の下の圧が逃げます」
ノアは頷き、工具を取り出した。
「俺が行く」
「私も行きます」
「危険だ」
「音を聞けるのは私です」
彼は反論しなかった。代わりに、私の手首をつかんだ。
「足場が崩れたら、俺の声に従え」
「あなたも、私の声に従ってください」
一瞬だけ、彼の目が柔らかくなった。
私たちは堰の脇へ回った。水しぶきで服が重くなり、石の隙間から泥が流れてくる。私は耳を澄ませた。
「三歩前。そこではなく、左です。下に空洞があります」
ノアが足を止める。
「よく分かるな」
「水は隠れていても、嘘をつきません」
彼は小さく息を吐いた。
「人間は、よく嘘をつく」
「だから記録が要るのです」
排水溝の蓋を外すと、黒い水が勢いよく落ちていった。堰の震えがわずかに弱まる。ノアは水門の鎖へ工具を掛けた。
その時、背後から怒鳴り声が飛んだ。
「何をしている! 堰を壊すつもりか!」
使者が兵を連れて近づいていた。
「壊しているのは堰ではありません」
私は振り返らずに答えた。
「長年、直されなかった堰が壊れたのです。水を止めることだけを命じて、下流の安全を記録しなかった人たちの責任です」
「勝手なことを言うな!」
「ならば、今ここで記録を読み上げましょう」
アーヴェルの声がした。彼は村長たちと共に、濡れた帳面を抱えて立っていた。
「過去十年間、堰の補修費として申請された金額と、実際に使われた金額です。差額の行には、配水局の印があります」
使者が顔色を変えた。
村人たちから低いざわめきが起こる。誰かが帳面を受け取り、隣の者へ見せた。数字が人から人へ渡っていく。もう、ひとつの建物や役人が隠せる量ではなかった。
その間に、ノアが鎖を外した。
水門が半分だけ開き、流れが二手に分かれる。押し寄せていた水が排水溝へ逃げ、堰の震えが止まった。
だが、中央の石はすでに限界だった。
低い音がした。
私はそれを聞いた瞬間、ノアの腕を引いた。
「下がって!」
石堰が崩れた。
巨大な石が水中へ落ち、水しぶきが空まで上がる。兵たちは逃げ惑い、使者は足を取られて泥の中へ倒れた。けれど水は二つの水路へ分かれ、村の家々を避けるように流れていった。
崩れた堰の跡には、古い木箱がひとつ現れた。
ノアが拾い上げる。蓋には、かすれた配水局の印があった。
「隠されていた記録かもしれません」
アーヴェルが言った。
箱の中には、古い配水図と、補修工事の命令書が入っていた。日付は二十年前。署名には、現在の配水局長の父親の名があった。
そして地図には、今は存在しないはずの水路が一本、王都の貯水池へつながっていた。
私はその線を指でなぞった。
「水は、ずっと王都へ流されていたのです」
ノアが地図を見つめた。
「村の水が足りなかったのは、雨が少なかったからだけではない」
「誰かが、流れを変えていた」
夕方になると、村人たちは崩れた堰の周囲に灯りを並べた。兵たちは動けず、使者はアーヴェルの手配した馬車で王都へ戻された。資料の写しはさらに増え、今度は近隣の村へも運ばれることになった。
明日、私たちは王都へ向かう。
公開審査が本当に開かれるかは、まだ分からない。配水局が最後まで抵抗することも、きっと分かっている。
夜、管理所へ戻ると、ノアが窓辺に立っていた。
「明日で、何かが変わる」
彼が言った。
「変えます」
「怖くないのか」
私は少し考えた。
「怖いです。でも、怖いからこそ、聞こえたものを忘れたくありません」
ノアは黙って、机の上の地図を畳んだ。
「王都へ行ったら、俺の過去も話す」
私は彼を見た。
「身分を隠し、記録を読めないことを隠し、人を見下していた。俺も、あの制度の側にいた」
「あなたは、今ここにいます」
「それだけで許されるとは思っていない」
「許すかどうかを決めるのは、あなたではありません。けれど、これから何をするかは決められます」
ノアは長い間、私を見ていた。
「では、隣にいてもいいか」
「隣で、私の判断を聞いてください」
「分かった」
外では、崩れた堰を越えた水が、夜の底を流れている。
雨は降っていなかった。
それでも私は、最後の夜にふさわしい音を聞いていた。閉じられていた水が、もう戻らない道を選び、暗闇の先へ進んでいく音を。




