4 『推し』が“私”を認知してるんですけど?!
「……嗚呼、“愛しい花嫁”よ。可哀想に、そんな場所で」
その愛しい声を聞いた愛理の頭の中は、ぐるぐると疑問が渦巻いていく。カーテシーをしているからじゃなくて、驚きと恥ずかしさで顔が上げられない。
本当は、推しの魔王様に会えたら網膜に焼き付けてやろうとガン見する予定だったのに!
だが、“本物”の動く魔王様は、愛理のキャパを超えていた。
今まで愛理が見て、聞いていたのはゲームのイラストと音声。乙女ゲームは紙芝居なんて揶揄されるように、ゲーム内に短い動画すらないのだから、動いている推しを見るのは生まれて初めて。
すると、ぐるぐると考えてテンパっていた愛理のすぐ側で声が聞こえる。それがまた心臓に悪くて、愛理はびくりと肩を震わせてしまう。
「顔を上げてくれないか」
そう言って、魔王様は愛理の頬に、その黒い手袋越しの手を這わせた。酷く優しい触れ方だった。
余りの衝撃に、愛理は推しに触れられたことを脳が理解できない。地下牢の中にいる愛理に何故手が届いたのか、そっちばかりを脳が気にし始める。
「えっ?! どうして、牢の中に手が――?」
顔を上げたら、目の前に魔王様の胸板があった。黒い刺繍が施された黒いシャツ。第3ボタンくらいまで開けられたシャツから、鎖骨と鍛えられた胸元が覗いている。
心の準備が整わない距離に、愛理の脳みそは考えるのを放棄した。上を見上げてあの赤い瞳と視線が絡むのが恥ずかしくて、愛理は俯いて硬直する。
硬直してしまった愛理の身体を、彼は優しく包み込むように抱き締めた。
「俺が誰だか、分かるだろう? “魔王”に、物理的な牢など効くわけがない」
魔王様はそう、偉そうな声で言って、愛理の――いやジャクリーンの身体なんだけど――の赤い髪をひとすじ掬って、手袋越しの指先に絡めて弄ぶ。
「――ギャー?!?! 新規ボイス?!?!
聞いたことないセリフ!! って、えっ?! 今、『俺』って言った?! えーん、ごちそうさまですっ!!」
愛理は心の中で叫んだつもりだったのだが、口に出ていたらしい。頭上から、魔王様が吹き出した声がした。
「エッ? あ、ヤバ声にでて――」
しまった。私は今ジャクリーンなんだった。
まずい。ジャクリーンは魔王様に『ごちそうさまですっ!!』なんて言わないよ!!
「――やはり、“今回の花嫁”はとびきり愉快な女だな。
“愛しい花嫁”よ。
お前の本当の名前を俺に教えてくれないか?」
笑いを含んだ声。でもそれは、嘲笑ではなくて、余りにも甘ったるい響きを含んでいた。
愛理は、目の前の魔王様を信じられない思いで見詰めていた。あんなに恥ずかしかったのに、驚きすぎて抱き締められたままなのも忘れて、ばっちり正面から顔を見上げてしまう。
「え――? 魔王様、いま、なんて」
艶やかな黒髪を揺らして、魔王様は首を傾げて苦笑した。その真っ赤な瞳は優しげに細められる。
「お前の――“俺の愛しい花嫁”の本当の名前を教えてくれないか、と言ったんだ」
火照った愛理の脳みそが、やっと稼働し始めた。
どういうこと? 私は、ジャクリーンに転生したんじゃないの?
魔王様は、愛理が入ってるって知ってる――?
「本当、の? え、いや私は“ジャクリーン”……」
取り繕おうとして、愛理は公爵令嬢の名前を告げる。だが、途中で魔王様の手が言葉を遮った。
愛理の肩を抱いていた腕が、腰に回され、2人はさらに密着する。
片方の手で、愛理の手を取ると彼は手の甲に恭しく口付けを落とす振りをした。唇は触れていないのに、まるで本当の貴族のお姫様になった気分で、愛理は顔を真っ赤にしてしまう。
「ジャクリーン、それは君の“役名”だろう? 俺は中身の話をしてるんだ。
君だって役柄だけ愛されるのは不本意だろ」
そう言って愛理を見据える彼の目は、なんでも見通しているかのようだった。愛理の答えを待っているのか、魔王様はその美しく精悍な顔で愛理をじっと見詰めたまま。
うぅ、顔面SSR……!
あんなに目に焼き付けようと思ってたのに、眩しすぎて直視できない……!
愛理は目を泳がせながら、やっとの思いで名乗る。
もうバレてるとはいえ、こんな情けない悪役令嬢の姿を推しに見せるなんて……!
予定では、かっこよく断罪されて世界を呪って処刑されて、颯爽と攫ってもらうはずだったのに!!
「愛理……! 佐藤愛理ですッ!」
「ふむ。……アイr……アイリーン!」
すると、日本語の平坦な『り』の発音が難しかったのか、魔王様は巻舌になりながら噛む。それから、ちょっと外国風に名前を呼ばれた。
なんか違う、違うけど――いいっ!!
かわいいッ!
うぅ、推しが……私の名前呼んでるよお……うぅ……
愛理はもうすでに泣きそうだった。
笑顔で愛理の名前を呼ぶ推しが愛しすぎる。
噛んでしまったのが照れくさいのか、目の前の魔王様はゲームでは見た事がない顔で苦笑している。
ありがとう神様――!!
愛理は、この世界に連れてきてくれた神様に感謝した。




