09 遠乗り-1
09 遠乗り-1
エミリーさんの件は彼女のお父様の領主が対応してくれたようだ。
ギルドマスターが、「もうああいうことは起きないから安心するように」と小声で教えてくれたから。
わたしは自分のことより、キーランのためにほっとした。
あの子は、自分が悪く言われることなら笑って受け流せる。でも、わたしを侮辱されると駄目だ。相手が誰であろうと引かない。領主の娘であっても同じだった。もしまた同じことが起きていたら、今度こそ取り返しのつかないことになっていたかもしれない。だから、この件が穏便に収まったことが何より嬉しかった。
ある日、キーランが言った。
「貸馬屋が開業しました」
「まあ」
「よかったら出かけませんか?」
「いつ?」
「すぐにでも行きたいです。明日はどうでしょうか?」
わたしはすぐに返事ができなかった。
「えっと乗馬で着る物がないわ。先にそれを用意してからね」
「着るものですか?」
「そうですね。乗馬服ですか?」
「そう、古着屋を探してみるわ」
「古着屋ですか……」
キーランはう――んと考えてる感じで窓の外をみたり、わたしを見たが「そうだ」と手の平に拳をうちつけた。
「僕の服を貸します」
「え?」
「来てください」と手を引かれて彼の部屋に入った。
物が少なくしんと片付いた部屋だった。ベッドも誰も寝た事がないようになめらかだった。
彼はズボンを二枚ほど出すと、
「どうでしょうか? 試してみてください」と言いながらわたしをじっとみて立っている。
「えっと、キーラン。わたしの部屋で着てみるわね」
「え? ここでいいですよ」
「それは、ちょっと……」と言うと返事を待たずにキーランの部屋を出た。
自分の部屋で着替えたが、ウエストをベルトできゅっと締めて、裾も三回折り返した。
リビングに戻るとキーランがわくわくして待っていた。
「あぁ、大きいですね。でもミーナ。可愛いです。これでいいですね。これを着て明日行きましょう」
これは無理だと言うつもりだったけど、キーランの笑顔を見たら言えなかった。
だから、「行きましょう。楽しみね」と負けずににこにこして答えた。
翌朝、貸馬屋で少し揉めた。
わたしは一人で乗りたかった。実は、かなり乗れるのだ。
「しっかりと訓練を受けているのよ。王都の馬場でもよく乗っていたし、遠乗りもやっていたのよ」
そう言うと、キーランは困ったように笑った。
「それでも心配なんです」
「わたしよりキーランのほうが上手でしょうけど、わたしだって落ちたりしないわ」
「落ちなくても心配です」
「どうして? 馬が驚いて跳ねても対処できるわよ」
「……心配だからです」
答えになっていなかった。
そこへ貸馬屋の主人が慌てて駆け寄ってきた。
「ああ、申し訳ありません。この馬の予約を忘れていました。相乗りでお願いできますか」
ずいぶん都合のいい忘れ方だと思った。
ちらりと見ると、キーランがさりげなく主人へ銀貨を握らせている。
主人はにこにこと頭を下げた。
なるほどね。キーランやるじゃない。
わたしは全部見えたけれど、見なかったことにした。
この年になると、大抵のことは見逃せるようになる。
「それじゃあ仕方ないわね」
そう言うと、キーランは嬉しそうな顔をした。
……本当に分かりやすい。
とはいえ、実際に一台の鞍に二人で乗るとなると、想像以上の近さだった。
先にわたしが跨がり、その後ろにキーランが滑り込んでくる。背中に彼の胸がぴったりと合わさった瞬間、思わず背筋が跳ねそうになった。
「窮屈ですか?」
「……ううん、大丈夫よ」
耳元でささやかれたが、わたしは平静を装って答える。
キーランの長い腕が、わたしの脇を挟むようにして前へ伸び、手綱を握った。完全に彼の腕の中に閉じ込められた形だ。彼がふっと息を吐くたび、わたしの髪がかすかに揺れる。衣服越しに伝わってくる彼の体温は心地よく、それでいて妙に気恥ずかしい。
馬が歩き出すと、その揺れに合わせて二人の身体が嫌応なしに擦れ合った。
一人で乗っていると気にも留めなかった馬のステップが、これほど互いの体温を意識させるものだとは思わなかった。キーランが手綱をわずかに引くたび、彼の胸の厚みや、鍛えられたしなやかな筋肉の動きがダイレクトに背中へ伝わってくる。
それにしても、キーランの御し方は見事だった。
二人の体重を乗せているというのに、馬は少しの不快感も示さない。それどころか、キーランの微細な脚の合図や手綱捌きを完全に理解しているようで、まるで一頭の誇り高い生き物が、彼の意志そのものになって動いているかのようだった。悪路に差し掛かっても、わたしがバランスを崩さないよう、彼はさりげなく自身の身体で衝撃を吸収し、進路をコントロールしている。
「上手ね、キーラン。あなた、本当はどこかで専門的な訓練でも受けていたの?」
そう、尋ねると、彼はふっと笑って、
「いえ。ただ、昔から馬を扱う機会が多かっただけですよ」
はぐらかすような物言いだったけれど、その手綱を握る指先はどこまでも確かで、迷いがない。
揺れに身を任せているうちに、馬の足取りはますます軽やかになり、私たちは温泉へと続く旧街道へ入っていった。




