10 遠乗り-2
10 遠乗り-2
森の匂いが風に乗り、草花が揺れるたび甘い香りが流れてくる。
ここで走らせたいと思った時、「走りましょうか」とささやかれた。
その声にうなずくと、すぐに馬が駈歩を始めた。
心地よい三拍子、気が付くと彼と馬の両方に身をまかせてゆったりと揺れていた。
「気持ちがいいわね」
「はい」
馬も機嫌がいいのか、軽やかな足取りに乱れはない。
やがて視界が開け、広い河原へ出た。ここで並足に落としてゆっくりと歩く。
川は太陽の光を受けてきらきらと輝き、透き通った流れが白い石を洗っている。
「ここでお昼にしましょう」
フィルは手際よく火を起こした。
細い煙が立ちのぼり、やがて炎がぱちぱちと薪を舐め始めた。
鉄串に刺したソーセージが焼ける。
じゅうっと脂が落ち、香ばしい匂いがあたりへ広がる。
「はい。どうぞ」
焼きたてをパンにはさみ、からしを少しだけ塗って渡してくれる。
「美味しそう」
一口かじる。
皮がぱりっと弾け、中から肉汁があふれた。
「ほんとに美味しい」
「よかった」
キーランもようやく自分の分を食べ始めた。そして言った。
「前に屋台で食べた時、ミーナが美味しそうに食べていたので、自分で料理したのを食べてもらいたいと思ってたんですよ。ほんと良かった」
「ありがとう。そんなふうに思っていてくれたの?」
「はい」
「嬉しいわ。あなたが作ってくれた料理、とても美味しいもの」
「また作ります」
「ええ。楽しみにしているわ」
その時だった。
キーランの雰囲気が変わった。
さっきまでの穏やかな青年ではない。
目だけが鋭く細められ、遠くを走る馬車を見据えている。
身体は動いていないのに、いつでも飛び出せそうな空気だった。
一秒にもならなかったと思う。
だが、すぐにいつもの優しい表情へ戻る。
「何か来たかと思いました」
小さくつぶやく。
「何かいたの?」
「いえ。勘違いでした」
わたしは気にしなかった。
河原でソーセージを食べている人なんて珍しいから、馬車のお客さんが見ていただけだろう。
それよりも、風が気持ちいい。
空気が美味しい。
食事も美味しい。
隣にはキーランがいる。
キーランは、わたしのことが好きと言っていいのだろうか。
少なくとも、とても気に入ってくれているのは確かだ。
この年になると、そういうことは案外さらりと認められる。
わたしもキーランを大いに気に入っている。
ハンサムで、優しくて、働き者。
料理が上手で、庭仕事も得意で、馬も上手に乗りこなす。
それに、いつだってわたしを一番に考えてくれる。
気に入るに決まっている。
……あら。
こうやって並べてみると、好きなところばかりじゃない。
それって。
好き、ということなのかしら。
少しだけ頬が熱くなった。
気づかれたくなくて、川へ目を向ける。
春の風が、水面をきらきらと揺らしていた。
キーランはそんなわたしに気づいた様子もなく、火加減を見ながらコーヒーを淹れている。
その横顔を見ていると、胸の奥がほんのり温かくなった。
――それから、わたしたちはゆっくりと片付けを済ませて、馬に乗った。
行きにあれほど賑やかだった小鳥たちのさえずりはいつしか潜まり、代わりにどこか遠くで、夜の訪れを告げる
虫の声がぽつりぽつりと響き始めている。
思ったより風が冷たくなってきた。
わたしが小さく身震いをした瞬間、後ろから手綱を握るキーランの腕に、心なしかきゅっと力がこもった。彼自身の体温が、衣服を通じてわたしの背中にじんわりと染み渡ってくる。
「寒くありませんか」
「大丈夫。あなたが温かいもの」
素直にそう言うと、キーランの身体が一瞬だけ、気恥ずかしそうに強張ったのが分かった。
昼間に見せたあの鋭い男の影は、今の彼にはどこにもない。ただの、わたしのことを心から大切に思ってくれている、愛おしい青年だった。
「楽しかったわ。誘ってくれてありがとう、キーラン」
「……わたしも、とても楽しかったです。あなたとこうして過ごせるなら、毎日が今日であればいいのにと、夢をみるくらいに」
キーランの声は、夕闇に溶けてしまいそうなほど優しかった。
「夢は実現するわ」
わたしはそっと、手綱を握る彼の手に、自分の手を重ねた。
キーランが息を呑む気配が伝わる。
「また、連れていって」
「――はい。その時は、喜んで」
彼の声はわたしの予想より弾んでいた。
重ねた手の上に、彼の長い指がそっと絡められる。
家に帰り着くまでの少しの間、わたしはほんの少しだけ、彼の胸に深く身体を預けた。
春の夜風は冷たかったけれど、胸の奥の温かさは、少しも消えることはなかった。




