11 ネルフ
11 宰相ネルフ
ネルフが訪ねてきた。
宰相の息子で、優しい人ではあったが、たまに、ねばつくような目でわたしを見ることがあって、どうしても心を許すことはできなかった。
あの断罪の日、トーマスに腕をねじ上げられたわたしを、ネルフは愉快そうに見ていた。
そのネルフが、今、目の前にいる。
「ジェルミーナ。あぁ、今はミーナだね。あまりに変わらないから驚いた。本物の聖女は違うな」
「わたしは偽物よ」
「そう嫌わないでくれ。わたしはずっと、あなたが好きだったんだ。あんな愚か者には、あなたはもったいないと思っていた。いまや、わたしは宰相として辣腕を振るっている。あなたを得るにふさわしい」
わたしは一歩後ずさった。
「あの時も馭者と話をつけていた。誰にも気づかれないよう、こっそりわたしの別荘で保護する手はずだったんだ。それなのに、あの愚か者め。前日に怪我をして、別の馭者と交代しやがった」
その馭者は気の毒だけど、怪我に感謝ねと思うものの、ネルフに視線をむけられると、背筋を冷たいものが這い上がった。
「あなたが消えたと知って、どれほど探したことか。本当に必死だったんだ」
声が出なかった。
「今回は少し「気になること」があってここへ来た。だが、宰相としてではなく、ネルフ個人で来たんだ。ほら、ハウアー夫人の件だよ……そうか、知らないよね」
彼女に何が起こったの。
「教えてあげるよ。彼女ね、耳を切られたんだ。いや、切り落とされたと言ったほうが正しいかな。驚くだろう? それがうわ言であなたの名前をだしたんだ」
切り落とされたって? そんなことが……わたしも彼女にひどいことしているけど
「この前、河原にいるあなたを見つけた。あとは簡単だった。権力というのは便利なものだね」
わたしは唇を噛み締めた。
逃げだしたいが、足が動かない。
「あなたのそばにいる、あの若造は何者だ? 我が物顔であなたの隣に立って……気に入らない」
キーランの顔が脳裏に浮かぶ。
心臓が、どくりと鳴った。
「わたし自身は非力だ。腕っぷしも弱い。だが、権力だけはある。敏腕の宰相だからね」
ネルフは穏やかな笑みを崩さない。
だからこそ、その言葉が恐ろしかった。
「若造一人、潰すくらい造作もない」
その言葉が耳に残った。
穏やかな笑顔と優しい声で語られるそれは、刃になって胸へ突き刺さる。
わたしはキーランの笑顔を思い浮かべた。
彼は強いと思う。
だけど、権力というものは剣では斬れない。
理不尽という敵を、彼にぶつけたくなかった。
ネルフはテーブルにカードを置いた。
「ここで待っている」
「お断りよ」
「せめて、考えて答えて欲しいなぁ」
「考えても同じだわ」
「まあいい。権力を使うしかないかなぁ……ある日、この街が火事になるような気がする。逃げ道がなぜか塞がれて、老いも若きも焼け死ぬ。お祭りを楽しんだ連中も、君に親切な近所の人も……死んじゃうかもね」
「けだもの!」
「あぁ、けだものだよ。だけど君には優しいけだものさ」
ネルフはカードを指差した。
「今日から三日間、そこで待っている。いや、急がなくても大丈夫だ。君にも予定があるだろうから。三日間、独り寝というわけじゃない。相手は準備してある。楽しんで待っているよ」
そう言うと、ネルフはわたしの手を取り、口づけをして出て行った。
どれくらい、座っていただろう。
ドアが開いて、キーランが帰って来た。
「どうしたの? ぼうっとして」
「なんでもないわ」
「無理に聞きませんが、いつでも話してくださいね」
「ありがとう。キーランがいてくれてよかったわ」
そう言うと、キーランはにっこり笑った。
「うれしいですね」
そう言いながら、お礼にもらった野菜を台所に運んでいく。
キーランはいつものように献立について話していた。
サーモン。
かぼちゃ。
きのこ。
口は動いている。
声も聞こえている。
なのに言葉は意味を持たず、わたしの耳を通り過ぎていく。
頭の中では、別の声だけが繰り返されていた。
――若造一人、潰すくらい造作もない。
「聞いてませんでしたね」
「ごめんなさい」
「熱じゃないですよね」
キーランは心配そうに、わたしの額と頬に触れた。
「レモンで飲み物を作りますね。飲むとしゃきっとしますよ」
「ありがとう」
「ねぇ、ミーナ。何か気になることがあるの? 教えて欲しいな」
「ううん。何もないわよ」
「あの娘のことは気にしなくていいですからね」
「もちろん、気にしてないわ」
「うーん。それも悲しい。ちょっとは気にして欲しいかも……でも、どうでもいい相手です」
「そうなの? 城主のお嬢さんに喧嘩を売るのは、あまりよくないと思うけれど」
「気にすることないと思いますよ」
その夜は、キーランの料理がおいしかったにもかかわらず、わたしはスープを少し飲むのがやっとだった。
キーランはそれを心配して、早くにベッドへわたしを追いやった。
温めたミルクを飲むと、キーランはいつものように髪を撫でてくれた。
油断すると涙がこぼれそうで、わたしは毛布に潜り込み、眠ったふりをした。
キーランは、かなり長いあいだそばにいてくれた。
そして、いつのまにか眠ったわたしは夢を見た。
ネルフの夢だった。
ネルフが待つ部屋へ行くと、裸の女性が鞭打たれていた。
ネルフはわたしをベッドに押し倒し、腕と脚を固定した。
「きみのことだから、抵抗して大暴れするだろう。怪我をさせるのは本意じゃないから、縛らせてもらうね。そこから見ていて。あの女を。あれは道具だから……壊れるまで」
鞭が振り下ろされる。
乾いた音。
女の悲鳴。
次は自分だ。
そう思うたび息が詰まる。
逃げたい。
叫びたい。
けれど体は縛られ、指一本動かなかった。
耳を塞ぎたいのに、手は動かない。
そこにエミリーさんが来た。
彼女も裸にされる。
「助けて、やめて――いや――ラン……キ……どうして」
誰かの名前を呼んでいる。
けれど、聞き取れない。
その時、なにかが、視界を横切った。
尻尾が揺れている。
その尻尾が、わたしをなだめるように撫でる。
この尻尾を、わたしは知っている?
気づくと、いつのまにか自分のベッドに戻っていた。
安心して、もう一度毛布に潜り込んだ。




