30 少し手を貸した偶然
30 少し手を貸した偶然
そして、また祭りの季節がやってきた。
焼いた肉の香ばしい匂いと、砂糖を煮詰めた甘い香りが風に乗り、あちらこちらから楽器の音と楽しげな笑い声が聞こえていた。
あの頃と同じ祭りでありながら、時は確かに流れていた。
王都から戻ったミーナとキーランは、変わらず辺境で穏やかに暮らしている。
そして今年の祭りには、特別な客人が訪れることになっていた。
第二妃エリーゼと、その娘ソフィーである。
二人は王家の紋章のついた馬車ではなく、ごく普通の貴族が使う控えめな馬車で辺境へ入った。身につけているドレスも上等ではあるが、王族と一目で分かるほど華美なものではない。
とはいえ、まったく護衛をつけずに来るわけにはいかなかった。
王宮から選ばれた護衛たちは、貴族の従者や旅の供を装いながら、第二妃とソフィーの周囲をさりげなく固めている。
馬車の窓から祭りの町を眺めながら、ソフィーは目を輝かせていた。
「ソフィー。そんなに窓から顔を出してはいけませんよ」
第二妃はたしなめながらも、楽しげに微笑んだ。
かつて王宮の外の暮らしを何も知らず、市場へ行ってみたいと願っていた娘は、あっという間に美しい女性へと成長していた。
それでも、見知らぬものへ向ける好奇心に満ちた瞳は、昔のままだ。
「今日は王女としてではなく、一人の娘として祭りを楽しみなさい」
「はい、お母様」
「ですが、護衛の方々の指示には必ず従うこと。勝手に遠くへ行ってはいけません」
「分かっておりますわ」
素直に返事をしたものの、ソフィーの視線はすでに次の露店へ向かっていた。
第二妃は小さく笑い、それから窓の外へ目を移した。
今回、辺境を訪れた目的は、祭りを楽しむことだけではない。
辺境伯の息子とソフィーを引き合わせるためでもあった。
辺境伯家は、長年にわたってこの地を守り続けてきた。王都から遠く離れた土地でありながら、国にとって欠かすことのできない場所である。
もしソフィーと辺境伯の息子が心を通わせることができれば、王都と辺境はこれまで以上に強く結ばれる。
政略的な意味は大きい。
けれど第二妃は、それだけを望んでいるわけではなかった。
自分の息子がもう少し成長すれば、いずれ政治のすべてを任せたいと思っている。その時が来れば、ソフィーには王宮の争いから離れ、自分を大切にしてくれる者のもとで穏やかに暮らしてほしかった。
辺境伯の息子については、十分に調べてある。
真面目で領民思い。武芸に優れながら、それをひけらかすこともない。辺境伯の後継者として責任を果たし、身分の低い者にも分け隔てなく接する青年だという。
絵姿も見せた。
ソフィーは「お優しそうな方ですね」と微笑んだものの、それ以上のことは言わなかった。
今回の出会いも、堅苦しい見合いにはしたくなかった。
王宮の応接間で向かい合い、家柄や領地の話をするのではない。
祭りの雑踏の中で出会い、言葉を交わす。
まるで物語の一場面のように。
もちろん、どこで出会うかまでは、第二妃と辺境伯の間でおおよそ決められていたのだが。
「偶然というものは、少しくらい誰かが手を貸してもよいのです」
ミーナに第二妃がそう言った時、キーランは横で笑いをこらえていた。
「それは偶然ではなく、立派な計画ではありませんか?」
「キーラン」
ミーナが袖を引いてたしなめると、第二妃は気を悪くするどころか楽しげに笑った。
「出会いのきっかけを整えるだけです。その先まで母親が決めるつもりはありません」
「ソフィー様のお気持ちを一番に考えていらっしゃるのですね」
「ええ。あの子には、自分で選んでほしいのです」
かつて、何を着るかも、何を買うかも、自分では決められないと話していたソフィー。
だからこそ第二妃は、娘の生涯を決める相手だけは、娘自身に選ばせたいと願っていた。
祭りの当日、ミーナとキーランは広場の入口で二人を待っていた。
やがて護衛に囲まれた第二妃とソフィーが姿を見せる。
「ミーナ様!」
ソフィーはミーナを見つけると、王女らしい慎みを忘れかけたように足を速めた。
「お久しぶりでございます、ソフィー様」
ミーナが微笑みかけると、ソフィーは嬉しそうに答えた。
「またお会いできて嬉しいです。ずっと、この日を楽しみにしていたのです」
「わたしもです。今日は王都にはないものを、たくさんご覧になれますよ」
ソフィーは以前の約束を果たすように、町の娘らしい淡い空色のドレスを着ていた。髪も豪華に結い上げず、緩やかに編んで背へ流している。飾っているのは小さな真珠だけだった。
けれど、どれほど装いを控えめにしても、生まれ持った気品までは隠せない。
道行く者が思わず振り返るほど、ソフィーは美しく成長していた。
「とてもよくお似合いですわ」
ミーナが褒めると、ソフィーは嬉しそうにスカートをつまんだ。
「今日は自分で選んだのです。お母様が、好きなものを着てよいとおっしゃってくださいました」
「まあ。それは素敵ですね」
「いくつも並べて、ずいぶん迷いましたけれど」
「迷うのも、楽しいものでしょう?」
「はい!」
花が咲くように笑ったソフィーを見て、第二妃も満足そうに目を細めた。
「さて、何から見て回りましょうか」
ミーナが尋ねると、ソフィーは広場を見渡した。
「お肉も、甘いお菓子も。それと、あちらで皆さまが飲んでいるものは何でしょう?」
「果物のしぼり汁ですよ。少し酸っぱいですが、蜂蜜が入っています」
「飲んでみたいですわ」
「では、行きましょう」
一行は人混みの中へ入っていった。
護衛たちは二人ずつ前後に分かれ、周囲を警戒している。それでもソフィーには、王宮の外を自分の足で歩いているというだけで、何もかもが新鮮だった。
広場の向こうで大きな歓声が上がった。
祭りのために用意された飾り柱へ、若者たちが色布を結びつけている。その中央で指示を出していたのが、辺境伯の息子だった。
そばには、この町の領主の養子になった少年が立っていた。少年は辺境伯の息子を憧れと尊敬の入り混じった表情で見ている。
鍛えられた長身に、濃紺の上着。今日は辺境伯の後継者らしい礼装ではなく、ほかの若者たちと変わらない簡素な服装をしている。
彼は高い場所で作業していた少年を支え、無事に地面へ降ろしてやると、肩を叩いて笑った。
「よくやった。これで完成だ」
「若様、今度は向こうの屋台の天幕が外れたそうです!」
「分かった。すぐに行く」と彼は笑った。
「すぐに行く」と養子の少年も真似して答えた。
その姿を遠くから眺め、第二妃はわずかにうなずいた。
報告と変わらぬ青年だった。
天幕は青年の指示の元、すぐに元通りになって、屋台の主人が丁寧にお礼を述べていた。
やがて辺境伯の息子も、ミーナたちの姿に気づいた。
その隣にいる上品な婦人へ視線を移し、そして若い娘を見た。
事前にソフィーの絵姿は見せられていた。
美しい王女だと思った。
けれど、絵師がどれほど腕を尽くしても、彼女の本当の美しさまでは描けていなかったのだと、その瞬間に知った。
風が吹き、ソフィーの柔らかな髪を揺らした。
辺境伯の息子は、目を離すことができなかった。
周囲の喧騒が遠のき、楽器の音も、人々の笑い声も聞こえなくなる。
世界の中で、ただ一人だけが鮮やかに浮かび上がって見えた。
二人の視線が重なる。




