29 帰郷
29 帰郷
見慣れた辺境の街並みが見えてくると、ミーナは馬車の窓から身を乗り出した。
王都のような高い城壁も、立派な石造りの建物もない。土埃の舞う道の両側には、古びた店や小さな家々が並んでいる。
けれど、ミーナにとってはどんな美しい王宮よりも心の安らぐ景色だった。
「帰ってきたのね」
その声に、キーランが柔らかく微笑む。
「ええ。ようやく帰ってきました」
馬車は最初にギルドの前で止まった。
二人の帰還については、王都からすでに連絡が届いていた。それでもギルド長は朝から何度も入口を出たり入ったりして、落ち着かない様子で二人を待っていた。
馬車の音を聞きつけると、仕事を放り出すように外へ飛び出してくる。
先にキーランが馬車を降り、続いてミーナへ手を差し伸べた。
「ミーナ」
「ありがとう、キーラン」
その手を取ってミーナが地面へ降り立つ。
二人が揃って無事な姿を見せた途端、ギルド長の顔から張り詰めていたものが消えた。
「……よかった」
小さく漏れた声に、ミーナが笑う。
「ただいま戻りました、ギルド長」
「おかえりなさい。王都から無事に出発したとは聞いていましたが、実際に顔を見るまでは安心できませんよ」
ギルド長は二人を頭の先から足元まで確かめた。怪我がないと分かっても、まだ疑うようにキーランを見る。
「本当に、何もありませんでしたか?」
「ありませんよ」
「王宮で騒ぎを起こしていませんね?」
「起こしていません」
キーランは涼しい顔で答えた。
「……本当ですか?」
「俺はずっと、ミーナのそばにいました」
それは答えになっているようで、なっていない。
ギルド長が何かを察したように眉間を押さえると、ミーナが慌てて間へ入った。
「本当に大丈夫ですよ。いろいろな方にお会いしましたけれど、こうして無事に帰ってこられました」
「ミーナさんがそう言うなら、これ以上は聞きません」
ギルド長は深く息を吐いた。
「ともかく、おかえりなさい。二人とも」
「はい。ただいま」
王都での出来事は、あまりにも多かった。
けれど今、聞き慣れた声で「おかえり」と迎えられたことで、ようやく本当に帰ってきたのだと実感できた。
ギルドへの挨拶を終えると、二人は自宅へ向かった。
家の扉を開ければ、出かけた日とほとんど変わらない部屋が待っていた。薄く積もった埃も、少し冷えた空気も、ミーナには懐かしい。
「やはり、家が一番ね」
「俺もそう思います」
荷物を置くより先に、キーランは窓を開けた。新しい風が入り、閉め切っていた部屋の空気を入れ替えていく。
ミーナも袖をまくった。
「まずはお掃除ね」
「長旅のあとくらい、休んでいてください」
「二人でやれば、すぐに終わるわ」
「では、重いものは俺が持ちます」
「ふふ。いつも持ってくれているでしょう?」
掃除を済ませ、荷物を片づけると、二人は近所へ挨拶に回った。
最初の家の扉を叩くと、顔なじみの婦人が出てきた。ミーナの姿を認めた途端、目を丸くする。
「まあ! ミーナじゃないの!」
「ただいま戻りました」
「帰ってきたのね。王都へ行ったと聞いて、皆で心配していたのよ」
婦人はミーナの両手を取り、無事を確かめるように握った。その後ろから夫や子どもたちまで顔を出す。
「王宮に泊まったって本当か?」
「王女様にも会ったの?」
「王都はどんなところだった?」
次々と浴びせられる質問に、ミーナは困ったように笑った。
「そのお話は、またゆっくりいたします。それより、明日うちへいらっしゃいませんか?」
「何かあるの?」
「王都で新しいお菓子の作り方を習ったのです。キーランが作りますから、皆さんで食べに来てください」
「キーランが?」
全員の目が、ミーナの後ろに立つキーランへ集まった。
キーランは少し照れながらも頷く。
「うまくできるか分かりませんが、たくさん作ります」
「それなら絶対に行くわ!」
「俺も行く!」
「わたしも!」
返事を聞くまでもなかった。
そうして何軒か回るうちに話は広まり、翌日には近所の者だけでなく、ギルド長や顔なじみの冒険者までやって来ることになった。
翌朝、キーランは早くから厨房に立っていた。
今日作るのは王都で習ったケーキの一つだ。キーランはミーナが図書館やソフィーの部屋にいる間、厨房に入り浸っていたのだ。
薄く焼いた生地を何枚も重ね、間に甘いクリームを挟んで作る菓子だった。
ミーナは卓の上に並べたケーキを見て驚く。
「ずいぶんたくさん焼いたのね」
「人が増えましたから」
「昨日より、招待した人数が倍になっているわ」
「ミーナが皆に声をかけたからでしょう?」
「だって、皆さん食べたそうにしていたのですもの」
キーランは笑いながら、焼き上がった生地を冷ましていく。
やがて、甘い香りに誘われるように人々が集まってきた。
家の中だけでは入りきらず、庭にも椅子や箱を並べ、即席の卓を作った。近所の者たちも茶や果物、焼いた肉などを持ち寄ったため、いつの間にか小さな宴会のようになっている。
キーランが完成した菓子を卓へ運ぶと、歓声が上がった。
何層にも重なった生地の断面に、子どもたちが目を輝かせる。
「これが王都の菓子か?」
「切るのがもったいないわねえ」
「でも、切らなければ食べられないぞ」
キーランが一人分ずつ切り分け、皿へ載せていった。
最初の一口を食べたのは、近所の年配の男性だった。
皆が見守るなか、彼はゆっくりと噛みしめる。やがて目を見開き、大きく頷いた。
「さすが、王都の菓子だ。うまい!」
その言葉に、あちこちから笑い声が上がった。
隣に座っていた婦人が、もう一口食べて首を傾げる。
「さすが王都なのか、さすがキーランではないか?」
「確かにそうだ!」
「王都から持って帰ってきたわけじゃないものね」
「作ったのはキーランだ。なら、キーランがすごい!」
次々と褒められ、キーランは珍しく困った顔をした。
「作り方を教えてもらっただけですよ」
「教えてもらったって、作れなければ同じ味にはならないだろう」
「そうよ。うちの人に作らせたら、きっと真っ黒な塊になるわ」
「なぜ俺が作ることになっているんだ」
夫婦のやり取りに、また笑いが起こる。
ギルド長も菓子を一口食べ、感心したように頷いた。
「これは売れますね」
「ギルド長、すぐ商売の話にするのはやめてください」
「職業柄です」
「今日は皆で楽しむために作ったのですよ」
ミーナがたしなめると、ギルド長は笑った。
「分かっています。それにしても、本当に美味しい。無事に帰ってきただけでなく、こんな土産まであるとは思いませんでした」
「お土産はお菓子だけではありませんよ。王都のお話も、たくさんあります」
「では、聞かせてもらいましょうか」
「どこから話しましょう?」
ミーナは少し考え、王都までの道中や、初めて見た華やかな街並みについて話し始めた。
王妃や国王との間に何があったのかは語らなかった。それはもう、辺境の人々に背負わせる必要のない過去だった。
代わりに、王女ソフィーが市場へ行きたがったことや、王宮の立派な食事、王都で見つけた珍しい品々の話をした。
「王女様が、ミーナの古いカバンを気に入ったの?」
「ええ。お城の宝石より大切なのかと聞かれました」
「それで、なんと答えたんだ?」
「もちろん、大切ですと答えました。あのカバンには、わたしが自分の力で生き始めた頃の思い出が詰まっていますから」
しみじみと語るミーナの横で、キーランは新しい茶を淹れた。
「ミーナ、どうぞ」
「ありがとう、キーラン」
自然に差し出されたカップを受け取り、ミーナは微笑む。
その様子を見ていた婦人が、にやにやしながら言った。
「王都には、これより立派な暮らしがあったのでしょう?」
「ええ。寝台も食事も、それは見事でした」
「それでも戻ってきたのね」
「もちろんです」
ミーナは迷いなく答えた。
「わたしの家は、ここですもの」
キーランが彼女を見つめた。
ミーナもその視線に気づき、静かに見つめ返す。
「それに、わたしの大切な人も、ここにおりますから」
一瞬の静寂のあと、庭いっぱいに囃し立てる声が響いた。
「ごちそうさま!」
「菓子を食べに来たのに、もっと甘いものを見せられたぞ!」
キーランは照れもせず、どこか誇らしそうにミーナの隣へ座った。
「まだ菓子はあります。甘さが足りない方は、どうぞ」
その堂々とした返しに、皆がいっそう笑った。
王都でどれほど華やかな人々に囲まれても、ミーナが欲しいと思うものはなかった。
土埃の舞う道。
小さな家。
気兼ねなく笑い合える人々。
そして、自分の隣にいるキーラン。
それらはすべて、二十年前には想像もできなかった、自分で選び、自分の手で築いた暮らしだった。
日が傾くまで、庭から笑い声が絶えることはなかった。




