25 王妃とミーナ
25 王妃とミーナ
王妃の部屋の扉を開けた瞬間、ミーナを迎え入れたのは、鼻を突くような悪臭だった。高価な香油と、病人の体臭、そして死を予感させる薬の匂いが混じり合い、重く澱んでいる。
厚手の遮光カーテンが隙間なく閉められ、昼間だというのに部屋の中は薄暗い。まるで生きながらにして墓の中にいるようだった。
部屋の奥に鎮座する大きな寝台。そこに、王妃の姿があった。
誇り高く美しく整えられていた金色の髪は、今や水分を失って乾燥した藁のようになり、枕元に広がっている。頬は痛々しいほどにこけ、顔色は土気色に変色していた。布団の膨らみから推し量るに、体はやせ細っているだろう。そしてぴくりとも動く気配がない。
「王妃殿下。ミーナ様がお見舞いにいらっしゃいました」
付き添っていた侍女長のイボンヌが、感情を抑えた声で枕元へ告げる。
王妃の首が、油の切れた人形のようにゆっくりと動いた。
そして、暗がりに佇むミーナの姿をその瞳が捉えた瞬間――王妃の目が、こぼれ落ちんばかりに大きく見開かれた。
「……ぁ……あ……」
喉の奥で舌をもつれさせ、王妃は何事かを必死に訴えかける。だが、切れた唇から激しく息が漏れる音がするばかりでまともな言葉になっていない。
イボンヌは表情を変えず、壁際に緊張した面持ちで立っていた若い娘に目配せをした。彼女はこの部屋の「通訳」として雇われている、わずかな唇の動きを読み取る能力を持つ娘だった。
「『よく来たのね』とおっしゃっています」
娘はピクリとも微笑むことなく、淡々と王妃の言葉を代弁した。
ミーナは寝台から十分な距離を保ったまま、ドレスの裾を軽く持ち上げ、完璧で優雅な一礼を捧げる。
「お久しぶりでございます、王妃殿下。お加減はいかがかしら」
「……う……お……!」
王妃の視線がさらに鋭さを増し、狂気的な光を帯びる。
「『お姉様……?』とおっしゃっているようですが……」
娘は不思議そうに眉をひそめ、ミーナと王妃の顔を見比べた。この娘は二人の関係を知らぬから戸惑っている。
「あら」
ミーナは小さく小首をかしげ、冷ややかな微笑を浮かべた。
「わたくしは王妃殿下の姉ではございませんわ。人違いでは無くて?」
その静かな、しかし明確に線を引くような言葉に、王妃の顔が屈辱と怒りで激しく強張った。
「……ぃ……じ……!」
「『お姉様、意地……悪』? いえ、『意固地』……?」
読み取りきれない王妃の支離滅裂な罵倒に、娘は完全に混乱し、困惑の表情を浮かべる。
自分の言葉が正確に伝わらない焦れったさからか、王妃は喉を鳴らし、娘を激しく叱りつけるような視線を送ったが、やはり聞き取れる音にはならなかった。
「侍女長。このお嬢さんを下がらせてあげて。混乱してかわいそうだわ」
ミーナが気遣うように言うと、イボンヌはすぐにうなずいた。
「ネリー、もう下がっていいわ。ありがとうね」
「はい、失礼いたします!」
ネリーと呼ばれた娘は、この重苦しい空間から解放されることに心底ほっとした様子で、ミーナに深く頭を下げると、逃げるように部屋を出ていった。
人払いが済んだのを見計らい、ミーナが寝台へ一歩近づく。
その瞬間、それまで部屋の隅で影のように気配を消していたキーランが、音もなくミーナの隣へと滑り込んできた。
王妃はキーランの姿を認めた途端、過去の恐怖が蘇ったのか、顔をいっそうひきつらせて悲鳴をあげようとした。しかし、漏れ出たのはかすれた呼気だけだ。
「大丈夫よ、怯えなくて」
ミーナは事も無げに微笑みかける。
「あなたのその無惨な顔の傷を治して、少しばかり喋れるようにしてあげるだけだから」
ミーナが王妃の顔の上に両手をかざした。
その手から淡い光がこぼれ落ち、王妃の顔を包み込む。数秒の後、ミーナがすっと両手を引いた。
呪縛が解けたかのように、王妃の口から鋭い叫び声が響き渡った。
「その男を捕まえて! 今すぐ殺しなさい! 処刑よ!」
王妃が開口一番に放ったのは、怨嗟に満ちた命令だった。
「あら。いきなり、そのセリフでございますか? せっかく治してさしあげたのに」
ミーナは呆れたように息を吐く。
「手厳しいですね。怖い、怖い」
キーランはくすくすと笑いながら、ミーナの肩を優しく抱き寄せた。その親密な様子は、王妃に対する明確な当てつけだった。
「それではイボンヌ、わたしたちはこれで失礼するわね。おいとましますわ」
ミーナはそう告げると、キーランに肩を抱かれたまま、未練なく扉へと歩き出した。
残されたイボンヌは、寝台の王妃を冷ややかな目で見下ろした。
「殿下。せっかくお声を治していただいたのです。お礼くらいおっしゃらないと、礼儀に反しますよ」
「なんですって……!? イボンヌ、お前、誰に向かって口を利いているの! お前はクビよ! 今すぐこの城から出ていきなさい!」
激昂する王妃の罵声を背中で聞きながら、ミーナとキーランは部屋を出た。閉まりかけるドアの隙間から、キーランが楽しげに振り返り、王妃へあざ笑うような視線を送った。
「あなたの命令はねぇ」
イボンヌは無表情に告げた。
「殿下、あなたが礼儀正しくなさらないから、全身の治療をしてもらえなかったではありませんか。お口の傷を治してくださっただけでも、慈悲深いです……それなのに、開いた口で憎まれ口を叩くなんて……まぁ、今日は予定通り髪を切らせていただけますね。前から申し上げていたでしょう? 長くて痛んだ髪は、看病する侍女の負担になりますから」
「嫌よ! 無礼者! わたくしの髪を切るなんて絶対に許さない!」
「そうおっしゃいましても、もうすっかり傷んで見苦しいですしねぇ」
イボンヌが底意地の悪い笑みを浮かべたその時、ドアが大きく開け放たれた。
現れたのは、第二妃エリーゼだった。彼女の背後には、屈強な女が二人、控えている。
「エリーゼ! ちょうど良いところに! この無礼な女、イボンヌを今すぐクビにしてちょうだい!」
王妃が狂ったように叫ぶ。
エリーゼはふっと口元を歪め、哀れむような視線を王妃へ向けた。
「あら、殿下。お口を治していただいたのですね。さすがミーナ様。慈悲深いですわ。よく声が響くこと。お元気になられて何よりですわ」
エリーゼはそう言うと、冷酷な笑みを浮かべたまま、後ろの女たちに顎で指示を出した。
「お願いするわ」
女たちが寝台の左右へ分かれて進み出る。
「さあ、髪を切り落としますよ。殿下がどんなに呪詛の言葉を吐こうが、罵ろうが、一切気にする必要はありません。このエリーゼがすべてを許可し、ついておりますから」
「はっ」
女二人はエリーゼに深く頭を下げると、絶望に目を見開く王妃へと向き直った。
一人が無言で王妃の体を起こすと、イボンヌが王妃の髪を手早くとかした。それから手際よく二本の三つ編みを作ると、後方に控えていた女と場所を代わる。
女は大きなハサミで、ざっくりと三つ編みを切り落とした。一度では切れず、二度、三度と刃を入れ直すたび、鈍い音が部屋に響く。
その間、王妃は「やめなさい! やめなさい、命令よ!」と叫び続けたが、女たちは一切の反応を見せなかった。
反対側の三つ編みも、同じように切り離された。
女たちは切った髪を手に取り、エリーゼに一礼して部屋を出ていった。
「ご苦労様」
エリーゼは二人を労うと、二本のおさげ髪を受け取り、美しく装飾された箱に収めて棚へと置いた。
王妃は涙を流しながら、箱を見た。
「見たいときには見せてさしあげるわ」
エリーゼはそう言い捨てると、侍女に目くばせをして部屋を出ていった。
深々とお辞儀をしてそれを見送ったイボンヌは、ゆっくりと窓辺へ歩み寄ると、重苦しいカーテンを大きく開けた。
一気に明るい光が差し込む。さらに窓を開け放つと、澄んだ風が澱んだ空気を押し流していった。
「ミーナ様がおっしゃいましたの。お日様と新鮮な空気が一番大事な薬だそうです」
王妃は、あまりの眩しさに固く目を閉じた。




