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千年の呪いで声が出ません。でも死んだ看護師が頭の中に転生してきたので、無言で命を救っていたら副騎士団長に溺愛されました。  作者: 花月 宙


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第9話「視察の令嬢」

その日、前線の空気が変わった。

朝から兵士たちが妙にそわそわしている。

髭を剃っている者。鎧を磨いている者。

普段は泥だらけの天幕の前を掃いている者までいる。

『……何かあるの?』

イリスの中で、玲子が首を傾げた。

答えは、昼過ぎに来た。

王都からの視察使節団。

物資の補給状況を確認するという名目で、馬車が三台、護衛の騎士が十騎。

前線の野営地に似つかわしくない行列が、土埃を上げてやってきた。

だが兵士たちの視線は馬車にも騎士にも向いていなかった。

先頭の馬車から降り立った女性に、全ての目が吸い寄せられていた。

金色の髪が風に揺れる。碧い瞳。白い肌。汚れひとつない白と紫の衣装。

泥と血と汗にまみれた前線に、別の世界からそのまま切り取ってきたような女性が立っている。

きれい。

その一語だけが、イリスの中に浮かんだ。

玲子が知っている言葉で言えば、絶世の美女だった。

この子は声が出なくても、美しいものを美しいと感じる心は持っている。

兵士たちの間からため息が漏れた。

「メルヴィス家のご令嬢だ」

「あのメルヴィス家の……」

女性の視線が、まっすぐにひとつの天幕に向かった。

ゼクスの天幕だ。

「ゼクス・ブレンナー様はいらっしゃいまして?」

鈴を転がすような声だった。丁寧で、優雅で、一点の曇りもない。

天幕の布が開いた。銀灰の髪。無骨な顔。鎧の上からでもわかる、並の兵士の倍はある肩幅。

ゼクスが、面倒くさそうに目を細めて出てきた。

女性が微笑んだ。

完璧な笑みだった。

「お初にお目にかかります。アデス・メルヴィスと申します。何度もお手紙を差し上げておりましたのに、お返事をいただけませんでしたので──一度お目にかかりたくて、参上いたしました」

ゼクスの眉間に、深い皺が刻まれた。

「……手紙なら読んでいない」

「まあ。お忙しいのですわね。ですからこうして直接お伺いいたしましたの」

悪びれない。

怒りもしない。

まるで「お返事がないのは読んでいないからで、読めば当然お返事をくださるはずだ」と信じている顔だった。

ゼクスが何か言いかけたところに、グレゴールが歩いてきた。

「メルヴィス家のご令嬢か。遠路ご苦労であった。──ゼクス、視察団の案内を頼む」

「わしは本陣との連絡がある。お前がやれ」

ゼクスの顔が、一瞬だけ「正気か」と言いたげに歪んだ。

だがグレゴールは既に踵を返している。

アデスの目が、嬉しそうに輝いた。

「よろしくお願いいたしますわ、ゼクス様」

ゼクスは無言で歩き出した。

アデスがその隣に並ぶ。

金色の髪と銀灰の髪が並んで歩く姿に、すれ違う兵士たちが足を止めた。

イリスは医療班の天幕の前で包帯を抱えたまま、その背中を見ていた。

アデスが質問を始めた。

兵士たちの暮らし、食事の質、装備の状態。質問は的確で知的だった。

この人は馬鹿ではない。

むしろ聡明だ。

ゼクスは最初、ぶっきらぼうに答えていた。

「足りない」「不十分だ」「兵が消耗している」。

短い言葉。いつもの調子。

だが、天幕の間の狭い通路でアデスが足を踏み出そうとした時だった。

「そっちは泥が深い。こちらを通れ」

低い声で、短く。

ゼクスが半歩先に出て、足場の固い方を示した。

アデスが嬉しそうに微笑んだ。

「まあ、ありがとうございます」

ゼクスの顔は変わらない。

当然のことをしただけだ。

泥に足をとられれば転ぶ。

目の前の人間が転ぶなら、教える。それだけのこと。

でも、イリスは知っている。

この人はそういう人だ。

誰に対しても、そうなのだ。


荷運びの天幕の前を通りかかった時、アデスが足を止めた。

積み上げられた木箱と武器の山。

その間を重い荷を担いだ兵士たちが行き交っている。

「まあ、こんなに重いものを毎日……大変ですわね」

アデスが兵士に声をかけた。

労いの言葉。

兵士は照れくさそうに頭を掻いている。

「こいつらは腰を痛めている者が多い」

ゼクスがぼそりと言った。

「ルーゲンの城壁攻めで石を運ぶ作業が続いている。人手が足りない」

それは報告だった。

上に伝えるべき前線の実情。

だがアデスは目を潤ませた。

「お辛いですわね……。王都に戻りましたら、必ず増援のことをお伝えいたしますわ」

ゼクスが少しだけ目を見開いた。

イリスには社交辞令に聞こえた。

この人は、アデスの声に嘘がないと感じたのだろう。

声に嘘の色がない。

「……ならば頼む」

短い一言だった。

だがその一言に、ゼクスの声がほんのわずかに柔らかくなった。

兵のために動いてくれると言う人間に、素直に礼を言っている。

アデスの碧い瞳が、きらきらと輝いた。

イリスは天幕の影から、それを見ていた。

胸が冷たい。

あの人は誰にでもああなのだ。

目の前の人間が困っていれば手を差し出す。

泥に足をとられそうなら道を示す。

兵の苦しみを訴えてくれる相手には、声が柔らかくなる。

イリスにだけ特別なのではない。

あの優しさは、イリスだけのものではない。

『本当にそう思う? あの人、あの令嬢には泥の道を教えたけど、あなたには天幕の外で黙って立って見守ってた。どっちが特別だと思う?』

わかっている。

頭ではわかっている。

でも。

あの人の隣に立てるのは、声のある人だ。

名前のある家の人だ。

質問ができて、返事ができて、「ありがとうございます」と声に出せる人だ。

自分には何もない。

声も、家も、身分も。

『イリス。大丈夫?』

大丈夫。

大丈夫だと思う。

なのに手が震えている。

包帯を抱える指が白くなるほど力が入っている。

これは嫉妬ではない。

諦めだ。

最初から勝負になっていないのだから、嫉妬する資格すらない。

やがて、使節団が医療班の天幕に来た。

ヘルマンが胸を張って出迎える。

自分の領分だ。

治療の成果を滔々と語り始めた。

アデスは丁寧に頷いている。

その碧い瞳が、天幕の隅にいるイリスを捉えた。

水色の髪。紅い瞳。声を出さず、包帯を抱えて立っている小柄な少女。

アデスが近づいてきた。

「まあ。あなたは?」

イリスは答えられない。

口を開くが、声は出ない。

アデスが少し首を傾げた。傍にいた兵士が口を開いた。

「医療班の……手伝いです。声が出ないんです」

その目が、大きく見開かれた。

「まあ……お声が出ないのね」

それから、微笑んだ。太陽のような、曇りのない笑み。

「静かでお仕事に集中できて、羨ましいですわ。わたくしなんか、おしゃべりが止まらなくて困りますもの」

天幕の中が、一瞬だけ沈黙した。兵士たちの顔が微妙に強張っている。ヘルマンですら目を逸らした。

アデスだけが、何も気づいていない。

心の底から褒めたつもりで、にこにこと笑っている。

さらに微笑みを深くした。

「言葉がなくても伝わる関係って、素敵ですわね。わたくし、少し憧れてしまいますわ」

声が出ないことに、憧れる。

イリスの中で、何かが小さく軋んだ。

怒りではない。悲しみでもない。

もっと複雑な、名前のつけられない痛み。

この人は本当に悪気がない。

心からそう思って、心からそう言っている。

だからこそ、刃物より深く刺さる。

『……この子、何?』

玲子の声が、頭の中で凍りついていた。

アデスが天幕を出ていく時、ふと足を止めた。

振り返って、イリスをもう一度見た。碧い瞳が少し細まる。

「──あなた、どこかでお会いしたかしら? その瞳の色……どこかで見たことがあるような気がいたしますの」

紅い瞳と碧い瞳が交差した。

イリスは首を横に振った。

会ったことはない。

会えるはずがない。

住む世界が違いすぎる。

アデスは「気のせいですわね」と微笑んで、去っていった。

金色の髪が、午後の陽光にきらめいている。

残されたイリスの手の中で、包帯が皺だらけになっていた。


明日、第10話更新します。

月の下で、戦鬼の仮面が外れます。

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