第8話「光」
その日の夕方、ルーゲンの城壁に向けた偵察部隊が戻ってきた。
六人で出て、四人で帰ってきた。
一人は城壁からの矢で即死。
もう一人は──腹を深く斬られた若い兵士が、仲間に担がれて医療班の天幕に運び込まれた。
ヘルマンが処置にあたった。
手際は確かだった。
傷口を焼きごてで焼き止め、薬草を練り込んだ軟膏を塗り、布を巻く。
兵士の悲鳴が天幕を震わせたが、ヘルマンの手は揺るがない。
だが、傷が深すぎた。
内臓に達している。
出血が止まりきらず、兵士の顔から血の気が引いていく。
ヘルマンは立ち上がった。
「あとは神に祈れ」
天幕を出ていく背中を、イリスは見ていた。
この世界では、それが医術の限界なのだ。
手を尽くして駄目なら、神に委ねる。
ヘルマンを責めることはできない。
でも。
『イリス。あの子、このままだと朝まで持たない』
脈が弱い。
呼吸が浅い。
顔色は蝋燭の灯りの下でも分かるほど白い。
出血性ショックの初期段階。
救命センターなら輸液と輸血で対応する。
ここには何もない。
何もないけど、何もしないわけにはいかない。
イリスは兵士の傍に膝をついた。
傷口の包帯を確認する。
血が滲んでいる。
煮沸した布で圧迫し直す。
水を湿らせた布で唇を濡らしてやる。
冷えていく手足に、自分の手を当てて温める。
それしかできない。
この世界には点滴も輸血もない。
抗生剤もない。
あるのは薬草と、祈りだけだ。
兵士の手を握った。
冷たい。
どんどん冷たくなっていく。
この温度を、救命センターで何度感じてきたか。
人が死んでいく時の温度だ。
嫌だ。
この兵士はまだ若い。
朝、天幕の前を通りかかった時に、イリスに向かって手を振ってくれた兵士だ。
声の出ないイリスに、毎朝「おう」と声をかけてくれた。
声をかけてくれる人は、ほとんどいなかった。
助けたい。この手で。声が出なくても、薬がなくても。
イリスの手が、兵士の傷口の上に置かれた。
圧迫するためだった。
ただそれだけのつもりだった。
光った。
イリスの掌から、淡い光が漏れた。
蝋燭の炎とは違う、青白い、静かな光。
傷口を覆うイリスの指の隙間から、柔らかく溢れている。
一瞬だった。
まばたきの間に消えた。
イリスは気づいていなかった。自分の手を見つめているが、何も変わった様子はない。
『イリス、今——あなたの手、光ってた』
困惑の色が返ってくる。光? 何が?
『一瞬だけ。蝋燭とは違う光。あなたの手から出てた』
イリスが自分の手を見る。
体温が下がっている。光を出した分だけ、イリスの体から何かが失われている
血と水で汚れた、細い手。
何もない。
『……わから、ない。なに、それ』
私にもわからない。
看護師の知識にはない現象だ。
この世界の常識にも、たぶんない。
だが確かに見た。
『巫女の……光……』と呟く。
兵士のうめき声で思考が中断された。
脈を診る。
さっきより──強い。
ほんの少しだけ。気のせいかもしれない。
でも、顔色がわずかに戻っている気がする。
偶然か。
内臓損傷であの出血量なら圧迫だけでは止まらない。
あの光は何だったのか。
夜が更けていく。
天幕の外で虫の声がしている。
蝋燭の灯りが揺れて、兵士の顔に影を落とす。
イリスは兵士の傍を離れなかった。
時折、脈を確認する。呼吸を数える。布を替える。
水を湿らせて唇を濡らす。声をかけることだけができない。代わりに、冷たい手を両手で包んで、温め続けた。
天幕の布が、かすかに揺れた。
風ではない。誰かが外から覗いている。
イリスが顔を上げると、布の隙間から蒼い光が見えた。蝋燭の反射を受けた、蒼い瞳。
部下の見舞いに来たゼクスだった。
天幕の外に立って、中を覗いている。
いつからいたのか、わからない。
目が合った。
ゼクスは何も言わなかった。
片手を上げて──それが何の意味なのかわからなかったが、たぶん「続けろ」だったのだと思う──そのまま、音もなく去っていった。
鎧の軋む音すら立てなかった。あの大きな体で、どうやって。
『……イリス、顔赤いよ』
『ちがう。蝋燭のせい』
『蝋燭のせいで耳まで赤くなる人いないけど』
胸の奥がまた温かくなった。この温かさに名前はまだつけられない。
でもこの温かさがあるから、冷たい手を握り続けていられる。
夜明け前。
兵士が、薄く目を開けた。
「……水」
かすれた声だった。イリスが杯を差し出す。兵士が一口飲んで、少しだけ笑った。
「お前……ずっと、いてくれたのか」
頷く。それだけ。でも兵士の目が潤んでいた。
朝まで持たないと言われた兵士が、朝を迎えた。
ヘルマンが天幕に戻ってきた。
兵士が生きていることに、一瞬だけ目を見開いた。
だがすぐに表情を戻し、傷口を確認した。出血は止まっている。
「……薬草が効いたのだろう」
自分が施した処置の成果だと結論づけた。
イリスが夜通し傍にいたことには、触れなかった。
兵士が口を開きかけた。何か言おうとしている。
でもヘルマンの鷹の目が向けられると、口を閉じた。
ヘルマンが天幕を出た後、イリスは包帯を干しに外に出た。
声が聞こえた。『イリス、なんか変、聞いた方がいいと思う』
天幕の裏。ヘルマンが、誰かと話している。低い、押し殺した声だった。
「あの小娘のせいで、兵士どもが俺の治療を受けたがらなくなっている。ルーゲンの城壁攻めで毎日怪我人が出るというのに、焼きごてを恐れてあの口なしの下働きに泣きつく始末だ」
相手の声は聞き取れない。
だが、ヘルマンの声だけがはっきりと聞こえた。
「三十年この道でやってきた俺の面目が、あの小娘に潰されている。だが副団長に目をかけられているうちは手が出せん」
少しの沈黙。それから。
「あの娘、出自がわからんのだろう? 身元の知れぬ者を医療班に置く危険を、団長に進言すれば……」
イリスの手が、干していた包帯を握りしめた。
『イリス。聞こえた?』
恐怖の色。
灰色の、冷たい恐怖。
追い出されるかもしれない。
ここにいられなくなるかもしれない。
でもその中に、薄い青が混じっていた。
あの兵士が朝を迎えた。
自分の手で温め続けた手が、朝には少しだけ温かくなっていた。
『……だいじょうぶ。まだ、がんばれる』
言葉が長くなっている。少しずつ。ゆっくりと。
心の中でだけの言葉が、確かに育ち始めていた。
明日、第9話更新します。
前線に、場違いな客が来ます。




