第7話「包帯の時間」
ゼクスの天幕を訪れる。
それが、イリスの日課になった。
きっかけは手だった。あの日、イリスを庇ってできた右手の傷。
ゼクスが目を覚ました朝、手を掴まれた瞬間に見つけた。
三日も放置された切創。
傷口の端が赤く腫れかけていた。
看護師の血が許さなかった。
翌日から、イリスは毎日昼前にゼクスの天幕に通い始めた。
衛兵はもう止めなくなっていた。副団長が許可している以上、口を挟む者はいない。
手の傷の洗浄と包帯の交換。それだけなら、すぐに終わる。
でも、それだけでは済まなかった。
ベラドンナの毒は体から抜けても、後遺症が残る。
消化器の損傷。
体力の低下。
そして何より──瞳孔だ。
毒が完全に抜けたかどうかは、瞳孔の反応で確認するしかない。
だから毎日、手の包帯を替えた後に、イリスはゼクスの顔を覗き込む。
蝋燭を近づけて、離す。
瞳孔が縮むか。左右差はないか。
反応の速さは正常か。
その間、蒼い瞳と紅い瞳が、至近距離で向き合うことになる。
「……まだ必要なのか、これは」
低い声が、すぐ近くから聞こえる。
吐息が頬にかかるほどの距離。
こくり、と頷く。必要だ。
蝋燭の光を当てて瞳孔が正常に動くまで、毎日確認しなければならない。
そういう決まりだ。
救命センターではそうだった。
嘘ではない。
嘘ではないが──本当に毎日必要かと聞かれると、自信がない。
ゼクスは何も言わなかった。
最初の頃は体を強張らせていたが、三日もすると、静かに目を開けてイリスの顔を待つようになっていた。
この人は、沈黙を嫌がらない。
それがイリスにとって、どれほど楽なことか。
医療班の天幕では、患者に身振りで話しかけるたびに、最初は必ず怪訝な顔をされる。
声を出せと急かされる。
出ない、と首を振ると、哀れみか、苛立ちか、どちらかの目を向けられる。
ゼクスは、どちらの目もしなかった。
ただ静かに座って、イリスの手が包帯を解くのを待ち、イリスの目が瞳孔を確認するのを待ち、それが終わるまで、何も言わない。
その沈黙が心地よかった。
手の包帯を替える。革だこだらけの、大きな手。
剣を振るために作られた手なのに、指は意外なほど長い。
切創はようやく塞がりかけている。
毎日清潔な水で洗い、煮沸した布で巻き直した甲斐があった。
でも──この手には、他にも傷があった。
切創の周囲に、古い打撲痕。指の腫れている関節。
爪が欠けたまま放置されている親指。
どれも最近のものだ。訓練か、実戦か。
この人は毎日体を痛めつけて、そのどれひとつも手当てしていない。
ヘルマンのところに行けばいいのに、行かない。
部下が怪我をすれば真っ先に軍医を呼ぶくせに、自分のことは後回しにする。
この人は、自分を大事にしない。
それが玲子としても看護師としても、腹が立つ。
指先が、腫れた関節に触れた。ゼクスの手が、わずかに引っ込む。
痛かったのだ。でも声には出さない。
イリスが顔を上げて睨む。声は出ないが、目で言う。
なぜ放っておいたのか、と。
ゼクスが少しだけ目を逸らした。
あの戦鬼と恐れられた男が、小さな少女の睨みに、目を逸らした。
「……大したことはない」
大したことある。
身振りで伝える。
関節を指さして、首を横に振って、ゼクスの胸を指さして、もう一度首を横に振る。
あなたは自分を大事にしなさすぎる。
通じたかどうかわからない。
でもゼクスは何も言い返さなかった。
包帯を巻き終える。
腫れた関節には湿らせた布を当てておいた。
瞳孔の確認も済んだ。
左右差なし。反応速度は正常に近い。もうあと数日で、毒の影響は消えるだろう。
立ち上がる。一礼する。
それから──声のない口が、動いた。
毎日、すべての手当てを終えた後に、必ず。
──お大事に。
声にならない。
唇が形を作るだけ。
空気が漏れるだけ。
この言葉を聞いた人間は、誰もいない。
でも今日は、違った。
ゼクスのあの目が、イリスの唇を見ていた。
じっと。まばたきもせずに。唇の動きを追っている。
あの冷たいはずの蒼い目が、イリスの口元に釘付けになっている。
心臓が跳ねた。
『……ねえ、イリス。あの人、あなたの唇をガン見してるよ』
玲子の声が頭の中に響く。茶化すような、でも少し興奮した声。
恥ずかしさが爆発した。
頬から耳まで一気に赤くなるのが自分でもわかった。
視線を逸らして、天幕の出口に向かって歩き出す。
逃げるように。
「待て」
背後から声がかかった。
足が止まる。振り返れない。顔が赤いのを見られたくない。
「……お前は、毎日それを言っているのか」
心臓が止まりそうになった。
気づいていた。この人は、唇の動きを見ていた。
何を言っているかはわからなくても、毎日同じ言葉を繰り返していることに、気づいていた。
振り返る。視線がぶつかった。
ゼクスの表情は相変わらず読めない。
でも、蒼い瞳の奥に、これまでと違うものがあった。冷たい観察でもなく、鋭い計測でもなく。
もっと静かで、もっと深い、何か。
「……何と言っている」
問いかけは、命令ではなかった。
知りたい、という声だった。
あの低い無感情な声の中に、初めて混じった、小さな願い。
答えたかった。
声にして伝えたかった。
この言葉を、世界で一番伝えたかった。
でも声は出ない。
唇だけがもう一度動く。
同じ形。同じ五文字。
──お大事に。
ゼクスは唇の動きを見つめて、ゆっくりと目を閉じた。
「……わからん」
それだけ言って、寝台に体を倒した。
天井を見上げている。その横顔の、耳の端がほんのわずかに──本当にわずかに、赤かった。
天幕を出た。外の風が頬を冷やす。膝が震えていた。
『イリス、大丈夫? 顔すごいことになってるよ』
大丈夫じゃなかった。心臓が壊れそうだった。
『……玲子、もうやだ。明日からあの天幕行きたくない』
『行かないと手の包帯替えられないし、瞳孔の確認もできないでしょ』
『……やだ』
『でも行くんでしょ?』
沈黙。感情の色が、恥ずかしさの赤から、別の色に変わっていく。
温かくて、柔らかくて、名前をつけられない色。
イリスはまだ、それが何と呼ばれる感情なのか知らなかった。
明日、第8話更新します。
イリスの手に、変化が起きます。




