第6話「はちみつと水」
医療班の天幕は、血と膿の匂いで満ちていた。
そしてもうひとつ、この天幕を支配しているものがあった。
悲鳴だ。
天幕の奥から、断続的に聞こえてくる。人間の喉から絞り出される、獣じみた叫び。肉が焼ける臭い。鉄が赤く灼けている匂い。
焼きごてだ。
ヘルマンは化膿がひどい傷や、切断した四肢の止血に、灼熱の鉄を押し当てていた。傷口を焼き潰して塞ぐ。
出血が止まらない重傷者への焼灼止血が命を救う。
『この環境では焼灼以外に止血手段がない。この人はこの世界で最善を尽くしている』
ヘルマンの手際は確かだった。躊躇なく、正確に、鉄を押し当てる。
でも、その叫び声は天幕の外にまで響いていた。
治療の順番を待つ兵士たちの顔が、ひとつ残らず強張っている。
戦場で剣に怯まなかった男たちが、あの奥から聞こえる悲鳴に、顔を青くしている。
傷口が赤く腫れ始めた兵士が、隣の者にそっと囁くのが聞こえた。
「……あそこに入ったら、焼かれるのか」
初日から、ヘルマンは私を、睨んでいた。
「副団長のお情けで押し込まれた口なしの小娘に、何ができる」
四十代の軍医。がっしりとした体に鷹のように鋭い目。その目にあるのは、敵意というより侮蔑だった。
「包帯を替えろ。薬草の煎じ湯を運べ。それ以外には手を出すな」
頷くしかなかった。
ヘルマンの治療を、私は黙って観察した。
腕に深い裂傷を負った兵士の処置。
ヘルマンは傷口にたっぷりとはちみつを塗り、その上から布を巻いた。
泥や繊維の破片が傷口に残ったまま、その上に蓋をするように。
『イリス。あの傷、泥が入ってる。はちみつを塗る前に洗わないと、中で腐る』
映像で伝える。
傷口に異物が残ったまま塞がれた状態。
菌が増え、腫れ、膿が溜まる過程。
ヘルマンが次の患者に移った隙に、イリスは動いた。
清潔な水で泥を洗い出し、煮沸した布で覆い直す。はちみつは使わない。
「何をしている」
背後から氷のような声がした。ヘルマンが立っている。
「誰が許可した。俺の処置をやり直しただと?」
イリスは声が出ない。紙もない。ただ射貫かれて立ち尽くすしかない。
「はちみつは傷を塞ぎ、膿を外に出す。膿が出るのは体の中の悪いものが押し出されている証だ。治癒の兆候なのだ。煮た布で蓋をすれば、悪いものが中に溜まる。そんなことも知らんのか」
ヘルマンの声には確信があった。
膿は治癒の兆候。
悪いものが体の外に出ている証拠。
この世界の医術では、それが常識なのだ。
ヘルマンは自分の信念に従って治療している。
悪意はない。ただ──間違っている。
膿は感染の証だ。
体が細菌と戦っている証拠であって、治癒ではない。
蜂蜜自体には殺菌作用がある。問題は泥を残したまま塗ること。
傷口を清潔にして感染を防げば、膿など出る必要がない。
でもそれを、声の出ないこの体でどう伝えればいい。
ヘルマンがイリスの巻いた包帯を剥がし、再びはちみつを塗った。兵士が痛みに呻く。
『……今は引いて、イリス』
怒りの赤が灯りかけていたが、私が抑えた。正面からぶつかっても勝てない。結果で示すしかない。
それから、イリスは黙々と働いた。
ヘルマンに指示された雑用をこなしながら、隙を見て自分にできることをした。
包帯を煮沸して乾かす。
傷口に触れる前に手を洗う。
患者の熱を確認し、水を飲ませ、寝返りを打たせる。
患者には、体で話しかけた。
痛むかと聞くときは、傷口を指さしてから自分の眉をひそめて見せる。
水を飲むかと聞くときは、杯を持ち上げて口元に運ぶ仕草をする。
寒くないかと聞くときは、自分の肩を抱いて首を傾げる。
最初、兵士たちは戸惑っていた。
声の出ない小娘が、妙な身振りを繰り返している。
だがイリスが諦めずに同じ仕草を繰り返すうちに、一人が気づいた。
「……水が欲しいのかって聞いてるのか?」。イリスが大きく頷くと、兵士は少し笑って、頷き返した。
それからは早かった。
痛ければ顔をしかめる。
水が欲しければ頷く。イリスの身振りを兵士たちが読み取り、兵士たちの表情をイリスが読み取る。
声のない対話が、少しずつ成り立ち始めていた。
「布を煮て何になる。薪の無駄だ」
「水で洗えばいいというものではない」
「いちいち患者をひっくり返すな。安静にさせろ」
ヘルマンは何度も叱責した。イリスは頷いて、ヘルマンが去ると、また同じことを繰り返した。
三日が過ぎた。
変化は、誰の目にも明らかだった。
ヘルマンが処置した兵士たちの傷が、次々と赤く腫れていた。
はちみつの下で異物が膿み、熱を持ち、悪臭を放っている。
ヘルマンはそれを「順調に悪いものが出ている」と言った。
だが膿は止まらず、一人は高熱で意識が混濁し、もう一人の傷口からは壊疽の兆候が見え始めていた。
その二人の行き着く先を、兵士たちは知っている。
天幕の奥で、焼きごてが待っている。
イリスが処置した兵士たちの傷は、腫れていなかった。
清潔な水で洗い、煮沸した布で覆い、定期的に交換した傷口は、赤みが引き、薄い皮膚が張り始めている。
膿が出た者は一人もいない。焼きごてに至った者も、一人もいない。
兵士たちの間で、声にならない変化が起きていた。
怪我をした者が、ヘルマンではなくイリスの方を見るようになった。
あの奥の悲鳴を聞くたびに、水色の髪の少女が巻いてくれた清潔な包帯に、手を当てるようになった。
最初に口にしたのは、トビアスだった。
夕暮れ時、包帯を干しているイリスの傍に来て、小声で言った。
「……みんな、気づいてる」
イリスが顔を上げる。
「お前が手当てした奴は治ってる。先生が手当てした奴は化膿して、焼かれてる。──みんな、わかってるんだ。お前がいないと助からないって」
イリスの目が潤んだ。
誰にも聞こえない声で、誰にも認められないまま、ただ正しいと信じることを続けてきた。
それを見ていた人がいた。
『……ほんと?』
心の中で、かすかな思念が揺れた。信じていいのかわからない、という色。
トビアスが頭を掻いた。
「ただ、先生はもっと怒ると思う。気をつけろ。あの人はプライドが高いから」
言いかけて、口をつぐんだ。
天幕の奥から、ヘルマンがこちらを見ていた。鷹の目がイリスとトビアスを交互に射貫いている。
その手には、鉄の棒が握られていた。先端が、まだ赤い。
『玲子。あの先生、怖い』
『うん。でもね、イリス。あの人は自分が正しいと信じてる。信じてるからこそ、あなたの結果を認められない。それが一番危ないんだよ』
イリスの感情が揺れた。怖い。でもその下に、もうひとつ。
あの兵士たちの傷が治っている。自分の手で。焼きごてではなく、水と布で。
その事実だけが、声のない少女の足を、この場所に繋ぎ止めていた。
明日、第7話更新します。
包帯を巻く手と、それを見つめる目の話です。




