第5話「何者だ」
ゼクスの天幕には、二人の兵士が立っていた。
毒殺未遂の直後だ。当然の措置だった。副団長の天幕の前に、剣を帯びた衛兵が交代で立ち、誰も近づけないようにしている。天幕の中にも一人、年嵩の従卒がつきっきりで容態を見ていた。
イリスは近づくことすらできなかった。
衛兵に追い払われ、荷物の陰に座り込み、それでもその場を離れなかった。天幕の布越しに漏れる物音を、ずっと聞いていた。
夜の間、私は何度か眠るように言った。でもイリスは灰色の拒絶を返すだけだった。
あの人の呼吸が止まるかもしれない。
止まったら、中にいる従卒は気づけるのか。あの人が苦しんでいる時に、正しい処置ができるのか。
その不安の色が、夜通し揺れていた。
明け方、天幕の中が騒がしくなった。
従卒の声が聞こえる。「副団長、お目覚めですか。水を──」。続いて、低い掠れた声。聞き取れない。でもあの声だ。生きている。
イリスが立ち上がった。衛兵に近づく。声は出ない。ただ天幕を指さして、入れてくれと目で訴える。
衛兵は困惑した顔をした。昨夜、この少女が副団長の命を救ったことは陣中に広まっている。だが命令は命令だ。
「駄目だ。団長の許可なく──」
天幕の中から、掠れた声がした。
「……入れろ」
衛兵が顔を見合わせ、布を開けた。
天幕の中は薬草の匂いと、まだかすかに残る昨夜の嘔吐の臭気が混じっていた。従卒が湿った布でゼクスの額を拭いている。簡易寝台の上で、銀灰の髪の男がうっすらと目を開けていた。
蒼い瞳が、霞んでいる。焦点が合わない。それでも、天幕に入ってきた小さな影を捉えて、わずかに動いた。
「……水色の、髪か」
従卒が脇に退いた。イリスが寝台の傍に膝をつく。ゼクスの顔色を見る。紅潮は引いている。瞳孔も昨夜ほど開いていない。回復に向かっている。
看護師の反射で、額に手を当てた。熱がある。だが昨夜よりは下がっている。脈を診る。まだ速いが、安定してきている。
従卒が目を丸くしていた。
下働きの少女が、副団長の額に手を当てている。その目が、イリスの手つきを不審そうに追っていた。
ゼクスも同じことを見ていた。
「……お前が、昨夜、俺に何をした」
イリスはためらった後、寝台の脇に置かれた伝令用の紙と炭の棒を取った。震える手で書く。
『ねつ ひやした。はいた物 のどにつまらないよう 見てた』
文字は拙かった。形が歪んで、大きさも揃わない。母との筆談で覚えた文字は、他人に見せることを想定していない。
ゼクスが紙を受け取り、しばらく見つめた。
「毒と、わかったのか」
こくり、と頷く。
「なぜわかった」
また、炭を走らせた。
『目のひとみがひらいていた。かおがあかくて カラダ あつい』
ゼクスの目が変わった。霞んだ瞳の奥に、鋭い光が戻ってきている。
「どこでそれを学んだ」
書けない。前世の救命センターで十年かけて叩き込まれた、とは。
長い沈黙の後、イリスの手が動いた。
『わかりません。でもわかりました』
矛盾した文章だった。どこで学んだかはわからない。でも目の前の症状を見た瞬間、体が勝手に動いた。それだけが真実だった。
ゼクスは紙をしばらく見つめてから、寝台に頭を落とした。
「……もうひとつ聞く。おれが割って入ったあの兵士の剣を逸らした時も、同じか」
こくり、と頷くしかなかった。
ゼクスは何か言いかけて、咳き込んだ。ベッドの横にあった布を、水で湿らせて口元を拭く。その手を、ゼクスが掴んだ。力は弱い。でも離さない。
──この手。
看護師の目が、掴まれた瞬間に見ていた。革手袋の下、あの日、皮の手袋で剣を掴んだ切創。三日経っているのに手当ての跡がない。傷口が乾いてはいるが、端が赤く腫れかけている。放置すればこの手は使えなくなる。
そのとき、天幕の外で衛兵が姿勢を正す音がした。
布が開き、重い足音が入ってくる。白髪交じりの髪に深い皺が刻まれた顔。がっしりとした体躯。目には重厚な知性がある。
グレゴール。騎士団長だった。
その後ろに、伝令兵が一人ついている。
「起きたか、ゼクス。──毒の件、報告がある」
グレゴールの声は低く、硬かった。イリスに一瞥をくれたが、まずゼクスに向き直る。
「ワイン樽を調べさせた。樽そのものには異常がない。だが、お前の杯にだけ反応が出た。杯の内側に、黒紫色の残滓があった。潰した果実だ」
ゼクスの目が細くなった。
「俺の杯にだけ、か」
「ああ。他の者が飲んだ杯からは何も出ていない。つまり、樽に毒を入れたのではなく、お前の杯に直接仕込んだ人間がいる」
天幕の空気が変わった。従卒が息を呑む。
「杯に触れる機会があった者を洗い出している。昨夜の給仕は三名。いずれも古参の兵だが、一人は今朝から行方が知れない」
「逃げたか」
「追っている。だが──ゼクス。お前を狙った理由がわからん。前線の副団長を殺して誰が得をする」
ゼクスは答えなかった。ただ天井を見上げて、何かを考えている顔をしていた。
グレゴールの目がイリスに移った。
「この娘が、お前を助けたという話は本当か」
「ああ。毒の種類を見抜き、的確に動いた。ヘルマンが不在の中で、この下働きだけが動いた」
グレゴールがイリスを見つめた。小柄で、痩せていて、声も出ない少女。
吐瀉物の染みがまだ残る麻の服。その目だけが、まっすぐにグレゴールを見返している。
「名前は」
イリスの手が震えながら紙に書いた。
『イリス』
グレゴールが紙を受け取り、読み、紅い瞳を見た。
しばらく黙って見つめてから、ゼクスに向き直った。
「で、お前の進言は」
「この娘を医療班に入れろ」
「ヘルマンが許さんぞ」
「ヘルマンは昨夜いなかった。俺が死にかけている間、本陣で政務官と飲んでいた」
静かな声だった。怒りではない。事実を述べているだけだ。だがその事実の重さが、天幕の空気を変えた。
グレゴールは腕を組み、しばらく沈黙した。
「……わかった。明日からヘルマンの下につけ。──ただし、毒の件は終わっていない。この娘も含め、全員の身元を洗い直す。それはいいな」
ゼクスが頷いた。
グレゴールが踵を返す。天幕の布に手をかけた瞬間、足を止めた。振り返らずに言った。
「……あの娘の瞳の色、どこかで見た気がするな」
ゼクスが何か言い返す前に、グレゴールは出て行った。
残されたイリスは、紙と炭の棒を握ったまま震えていた。医療班。怪我人を治す仕事。
怖い。でも、その恐怖の下に別の色が灯っていた。
この手で、人を助けられる。
声がなくても。名前を呼ばれなくても。この手だけは。
『イリス。大丈夫だよ。私がついてる』
小さな、温かい応答が返ってきた。言葉にはならない。でも色でわかった。
薄い青。
イリスの「大丈夫」の色だった。
『……グレゴールも瞳の色に反応した。あの副団長も、最初に見た時にあなたの目をじっと見ていた。二人目だよ、イリス。この瞳には何かある』
イリスには、わからない色が返ってきた。霧。
明日、第6話更新します。
医療班での日々が始まります。




