表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
千年の呪いで声が出ません。でも死んだ看護師が頭の中に転生してきたので、無言で命を救っていたら副騎士団長に溺愛されました。  作者: 花月 宙


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/15

第4話「毒」

それから二日が経った。

私はイリスの体の中で、少しずつこの世界を理解し始めていた。

イリスの日常は単純だった。

夜明け前に起きて、天幕の間を走り回る。

汚れた包帯を集めて洗い、薬草を煮た湯を運ぶ。

戦闘があれば負傷した兵士の鎧を脱がせてまわる。

食事は兵士たちの残り。

寝る場所は荷物置きの隅。

雑用係ですらない。

ここにいることを許されているだけの存在。

誰にも話しかけられず、誰にも名前を呼ばれない。

——声を使う場面そのものが、この子には存在していなかった。

だからだろうか。

玲子が何か伝えようとすると、イリスは心のなかでもまだうまく“言葉”の形を取れない。

その代わりに、先に“色”が立ち上がる。


「大丈夫」は薄い青。

「嫌」は灰色の壁。

「わからない」は霧。

言葉になりきらない感情が、色として滲み出てくるようだった。

そのあとに、遅れて言葉の輪郭が追いつこうとする——けれど、まだ形になりきらない。

少し違うのがあの銀灰の男──副団長を、イリスは遠くから何度か目で追う時。

胸の奥が赤く熱くなるのを、必死に隠そうとして、隠せていなかった。

私には全部伝わっているのだけれど、それを指摘するとまた真っ黒な拒絶の壁が飛んでくるので、黙っていた。


二日目の夕方だった。

前線に物資が届き、兵士たちの間に束の間の安堵が広がっていた。本陣の副官が持ってきたワインの樽が開けられ、幹部たちが天幕の中で杯を交わしている。イリスは天幕の裏で包帯を干しながら、中の笑い声を聞いていた。

陶器の割れる音がした。

続いて、椅子が倒れる音。怒号。

「副団長! 副団長!!」

イリスの手が止まった。濡れた包帯が地面に落ちる。

天幕の入口から兵士が転がり出てきた。顔が真っ青だ。

「誰か! ヘルマン先生は!?」

「今朝から本陣に行かれてる! 政務官との会合だ!」

「馬鹿な、この時に──」

イリスの足が動いていた。

私が何か言う前に、体が駆け出していた。天幕の布をかき分け、中に飛び込む。

目に入ったのは、床に散らばった陶器の破片と、赤いワインの水たまり。そして──。

銀灰の髪が、椅子の脚の間に散らばっていた。

大きな体が床に崩れ落ちている。だがその様子は、ただの昏倒ではなかった。

顔が赤い。

異様に赤い。蝋燭の光を浴びているというのに、まるで熱病にうなされているかのような、乾いた紅潮。

汗を一滴もかいていない。

そして瞳──煌々と燃える蝋燭の炎のすぐ傍だというのに、瞳孔が闇を飲み込んだように大きく開いている。

意味の通らない言葉が漏れ、手は宙を掴むようにさまよう。

男は自分の喉を掻きむしりながら喘いでいた。焼けるような渇きに苦しんでいる。

声にならないうめきが、引き攣った喉から漏れている。

看護師の目が、自動で走った。

散瞳。無汗の紅潮。口渇。頻脈。

この組み合わせを、私は知っている。

アトロピン中毒。この状況ならナス科の植物のベラドンナだ。

副交感神経を完全に遮断する毒。


周囲では兵士たちが右往左往していた。「悪霊だ」「呪いだ」と騒ぐ者。

祈祷師を呼べと叫ぶ者。誰も、この男の体の中で何が起きているか理解していない。

『イリス!』

頭の中で叫ぶ。イリスの感情が返ってくる。

恐怖。真っ白な恐怖。あの人が死ぬ。目の前で死ぬ。

『聞いて。この人は毒を飲まされた。たぶんワインに毒が入っていた。』

恐怖の中に、赤い光が灯った。

嫌だ。この人が死ぬのは嫌だ。

理由も理屈もない。ただそれだけの強い感情が、体を動かした。

イリスが膝をついて、ゼクスの傍に駆け寄る。


「おい! 何をしている!」

兵士の手が伸びてきた。細い腕を掴まれ、引き剥がされそうになる。

声が出ない。

「この人は毒です」が言えない。

「吐かせなければ死にます」が言えない。

もう片方の手で地面を叩く。

何度も。

見て。

見てよ。

この人が──。


「どけ! この子に触るな!」

裏返りかけた若い声が、天幕の中に響いた。

茶髪の青年──トビアスが、兵士たちを押しのけて割り込んできた。

線の細い体を壁にして、イリスと兵士の間に立つ。

「正気か、トビアス! こんな下働きに副団長を──」

「処置ができる者がこの中にいるのか!?」

トビアスの声が震えている。

だが目は真っ直ぐだった。

「いないだろう! ヘルマン先生もいない、薬師もいない! この中で副団長に触れて、何かをしようとしてるのはこの子だけだ!」

兵士たちが押し黙る。

「この子の目を見ろ。ふざけてるように見えるか? あの真剣なまなざしに──かけてみようじゃないか」

沈黙が落ちた。

トビアスの目は真っ直ぐだったが、その奥に自分でも説明がつかないという困惑が滲んでいた。

目に涙を溜めて、震えながら、それでも引かない。


『横にして!』

だが体は動いた。肩に腕を回し、必死に引く。重い。だが止めない。周囲の兵士がようやく手を貸し、男の体が横向きになる。その瞬間、喉の奥から液体があふれ、床へと流れた。仰向けのままだったら、確実に詰まっていた。

顎を上げ、顔を横へ。呼吸は荒いが続いている。

次に触れた皮膚が、焼けるように熱い。

水を指差す。布を掴み、濡らし、頸動脈、脇の下、鼠径部へと次々に当てがった。じゅ、と音がしそうなほどの熱。胸元にも、腕にも、何度も繰り返す。発汗はない。熱が逃げていない。

男が突然暴れた。

大きな体が痙攣した。

イリスの小さな身体で必死で支える。

意味のない叫び。虚空を掴む指。周りの兵士が数人がかりで押さえる。

「離すな、呼吸だけ守れ!」

時間が引き延ばされる。呼吸を数える。脈を触れる。速いが、まだ保たれている。


数時間が経過し、副団長の異常な頻脈がようやく落ち着きを見せた。

天幕の中には、湿った布を絞る音と、イリスの低い呼吸音だけが響いている。

やがて、荒れていた呼吸がわずかに深くなる。瞳孔がほんの少しだけ縮む。紅潮が、ゆっくりと引いていく。

「…………すまん、少し寝すぎたみたいだ」

ゼクスが、微かな、だが確かな声で呟いた。

イリスは暗闇の中で、ようやく安堵の息を吐く。彼の瞳孔が僅かに収縮を始め、狂乱の淵から理性が戻ってきた証拠だった。

『……効いてる。毒が抜け始めてる。大丈夫、イリス。あなたがこの人を助けたんだよ』

イリスの体から一気に力が抜けた。膝が折れ、ゼクスの横に崩れ落ちる。

トビアスが駆け寄ってきて、小さな体を支えた。

「おい、大丈夫か! 大丈夫か!」

イリスにはもう応える力がない。

吐瀉物にまみれた手で、それでもゼクスの手を離さなかった。

大きな手。あの日、差し出してくれた傷だらけの手。冷たい。でも脈が打っている。生きている。

イリスの唇が動いた。喉が空気を漏らすだけ、小さな形。

──お大事に。

その唇の動きを見ている者は、誰もいなかった。


明日、第5話更新します。

目を覚ました副団長が、イリスに問います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ