第4話「毒」
それから二日が経った。
私はイリスの体の中で、少しずつこの世界を理解し始めていた。
イリスの日常は単純だった。
夜明け前に起きて、天幕の間を走り回る。
汚れた包帯を集めて洗い、薬草を煮た湯を運ぶ。
戦闘があれば負傷した兵士の鎧を脱がせてまわる。
食事は兵士たちの残り。
寝る場所は荷物置きの隅。
雑用係ですらない。
ここにいることを許されているだけの存在。
誰にも話しかけられず、誰にも名前を呼ばれない。
——声を使う場面そのものが、この子には存在していなかった。
だからだろうか。
玲子が何か伝えようとすると、イリスは心のなかでもまだうまく“言葉”の形を取れない。
その代わりに、先に“色”が立ち上がる。
「大丈夫」は薄い青。
「嫌」は灰色の壁。
「わからない」は霧。
言葉になりきらない感情が、色として滲み出てくるようだった。
そのあとに、遅れて言葉の輪郭が追いつこうとする——けれど、まだ形になりきらない。
少し違うのがあの銀灰の男──副団長を、イリスは遠くから何度か目で追う時。
胸の奥が赤く熱くなるのを、必死に隠そうとして、隠せていなかった。
私には全部伝わっているのだけれど、それを指摘するとまた真っ黒な拒絶の壁が飛んでくるので、黙っていた。
二日目の夕方だった。
前線に物資が届き、兵士たちの間に束の間の安堵が広がっていた。本陣の副官が持ってきたワインの樽が開けられ、幹部たちが天幕の中で杯を交わしている。イリスは天幕の裏で包帯を干しながら、中の笑い声を聞いていた。
陶器の割れる音がした。
続いて、椅子が倒れる音。怒号。
「副団長! 副団長!!」
イリスの手が止まった。濡れた包帯が地面に落ちる。
天幕の入口から兵士が転がり出てきた。顔が真っ青だ。
「誰か! ヘルマン先生は!?」
「今朝から本陣に行かれてる! 政務官との会合だ!」
「馬鹿な、この時に──」
イリスの足が動いていた。
私が何か言う前に、体が駆け出していた。天幕の布をかき分け、中に飛び込む。
目に入ったのは、床に散らばった陶器の破片と、赤いワインの水たまり。そして──。
銀灰の髪が、椅子の脚の間に散らばっていた。
大きな体が床に崩れ落ちている。だがその様子は、ただの昏倒ではなかった。
顔が赤い。
異様に赤い。蝋燭の光を浴びているというのに、まるで熱病にうなされているかのような、乾いた紅潮。
汗を一滴もかいていない。
そして瞳──煌々と燃える蝋燭の炎のすぐ傍だというのに、瞳孔が闇を飲み込んだように大きく開いている。
意味の通らない言葉が漏れ、手は宙を掴むようにさまよう。
男は自分の喉を掻きむしりながら喘いでいた。焼けるような渇きに苦しんでいる。
声にならないうめきが、引き攣った喉から漏れている。
看護師の目が、自動で走った。
散瞳。無汗の紅潮。口渇。頻脈。
この組み合わせを、私は知っている。
アトロピン中毒。この状況ならナス科の植物のベラドンナだ。
副交感神経を完全に遮断する毒。
周囲では兵士たちが右往左往していた。「悪霊だ」「呪いだ」と騒ぐ者。
祈祷師を呼べと叫ぶ者。誰も、この男の体の中で何が起きているか理解していない。
『イリス!』
頭の中で叫ぶ。イリスの感情が返ってくる。
恐怖。真っ白な恐怖。あの人が死ぬ。目の前で死ぬ。
『聞いて。この人は毒を飲まされた。たぶんワインに毒が入っていた。』
恐怖の中に、赤い光が灯った。
嫌だ。この人が死ぬのは嫌だ。
理由も理屈もない。ただそれだけの強い感情が、体を動かした。
イリスが膝をついて、ゼクスの傍に駆け寄る。
「おい! 何をしている!」
兵士の手が伸びてきた。細い腕を掴まれ、引き剥がされそうになる。
声が出ない。
「この人は毒です」が言えない。
「吐かせなければ死にます」が言えない。
もう片方の手で地面を叩く。
何度も。
見て。
見てよ。
この人が──。
「どけ! この子に触るな!」
裏返りかけた若い声が、天幕の中に響いた。
茶髪の青年──トビアスが、兵士たちを押しのけて割り込んできた。
線の細い体を壁にして、イリスと兵士の間に立つ。
「正気か、トビアス! こんな下働きに副団長を──」
「処置ができる者がこの中にいるのか!?」
トビアスの声が震えている。
だが目は真っ直ぐだった。
「いないだろう! ヘルマン先生もいない、薬師もいない! この中で副団長に触れて、何かをしようとしてるのはこの子だけだ!」
兵士たちが押し黙る。
「この子の目を見ろ。ふざけてるように見えるか? あの真剣なまなざしに──かけてみようじゃないか」
沈黙が落ちた。
トビアスの目は真っ直ぐだったが、その奥に自分でも説明がつかないという困惑が滲んでいた。
目に涙を溜めて、震えながら、それでも引かない。
『横にして!』
だが体は動いた。肩に腕を回し、必死に引く。重い。だが止めない。周囲の兵士がようやく手を貸し、男の体が横向きになる。その瞬間、喉の奥から液体があふれ、床へと流れた。仰向けのままだったら、確実に詰まっていた。
顎を上げ、顔を横へ。呼吸は荒いが続いている。
次に触れた皮膚が、焼けるように熱い。
水を指差す。布を掴み、濡らし、頸動脈、脇の下、鼠径部へと次々に当てがった。じゅ、と音がしそうなほどの熱。胸元にも、腕にも、何度も繰り返す。発汗はない。熱が逃げていない。
男が突然暴れた。
大きな体が痙攣した。
イリスの小さな身体で必死で支える。
意味のない叫び。虚空を掴む指。周りの兵士が数人がかりで押さえる。
「離すな、呼吸だけ守れ!」
時間が引き延ばされる。呼吸を数える。脈を触れる。速いが、まだ保たれている。
数時間が経過し、副団長の異常な頻脈がようやく落ち着きを見せた。
天幕の中には、湿った布を絞る音と、イリスの低い呼吸音だけが響いている。
やがて、荒れていた呼吸がわずかに深くなる。瞳孔がほんの少しだけ縮む。紅潮が、ゆっくりと引いていく。
「…………すまん、少し寝すぎたみたいだ」
ゼクスが、微かな、だが確かな声で呟いた。
イリスは暗闇の中で、ようやく安堵の息を吐く。彼の瞳孔が僅かに収縮を始め、狂乱の淵から理性が戻ってきた証拠だった。
『……効いてる。毒が抜け始めてる。大丈夫、イリス。あなたがこの人を助けたんだよ』
イリスの体から一気に力が抜けた。膝が折れ、ゼクスの横に崩れ落ちる。
トビアスが駆け寄ってきて、小さな体を支えた。
「おい、大丈夫か! 大丈夫か!」
イリスにはもう応える力がない。
吐瀉物にまみれた手で、それでもゼクスの手を離さなかった。
大きな手。あの日、差し出してくれた傷だらけの手。冷たい。でも脈が打っている。生きている。
イリスの唇が動いた。喉が空気を漏らすだけ、小さな形。
──お大事に。
その唇の動きを見ている者は、誰もいなかった。
明日、第5話更新します。
目を覚ました副団長が、イリスに問います。




