第3話「二人の声」
銀灰の男が去ってからも、しばらく動けなかった。
土の上に座り込んだまま、細い両手を膝の上に置いて、震えが収まるのを待つ。
周囲では兵士たちが慌ただしく動き回っている。錯乱した兵士を運ぶ者、天幕の中から怒鳴り声を上げる者。誰もこの片隅の少女に注意を払わない。
それが、当たり前なのだろう。この子にとっては。
『……ねえ、聞こえてる?』
頭の中で呼びかける。さっきの感覚を頼りに、心の奥に向かって言葉を投げる。
返ってきたのは、言葉ではなかった。
怯えの塊。暗くて冷たい、丸まった感情がぶつかってくる。
そこに混じっているのは「まだいる」「怖い」「出て行って」──いや、これは言葉じゃない。
心の色だ。
怯えの中に拒絶が滲んでいて、でもその奥にうっすらと、すがるような何かがある。
救命センターで、何度もこういう場面があった。意識が朦朧とした患者。気管挿管で声が出ない患者。言葉にならないうめきや、手の動きや、目の揺れから、何を訴えているのか読み取る。十年間、毎日やってきたことだ。
でもこれは、それよりずっと難しかった。
この子は、声が出ないだけじゃない。
そもそも、自分の考えを言葉にして誰かに伝えた経験がないのだ。
この体に入った瞬間に流れ込んできた断片的な記憶の中に、声のない母の姿があった。
その母も声が出ない。祖母も。
家の中で交わされる会話がない環境で育ったら、言葉は「聞くもの」であって「使うもの」にならない。
頭の中に言葉はあっても、それを組み立てて相手に投げるという回路が、作られていない。
だから返ってくるのは感情の原石だけ。
磨かれていない、形のない塊。
『大丈夫。急がなくていいよ。私はここにいるから』
救命センターで声の出ない患者にそうしたように、ゆっくり、はっきり、短い言葉で伝える。質問は一度にひとつだけ。選択肢があるなら二択で。
『私の名前は玲子。あなたに怖いことはしない。信じて、とは言わない。でもここにいさせて』
長い沈黙。
感情の波が揺れている。
怯えが少し引いて、代わりに疲労が滲んでくる。
ずっと緊張していたのだ。限界なのだろう。
そっと、何かが触れてきた。
感情ではなかった。映像だった。
暗い部屋。木の壁。小さな窓から差す弱い光。テーブルの上に、手書きの文字が並んだ紙。向かいに座る女の人が、紙に何か書いている。この人が書いて、イリスも書いて。紙の上だけで繋がる会話。
お母さんだ。
この子とお母さんは、筆談で話していた。
声のない家の中で、紙の上だけが二人の言葉だった。
場面が変わる。
お母さんがいなくなる。紙もなくなる。騎士団の前線。荷物を運ぶ。
汚れた包帯を洗う。誰も、紙を差し出してくれない。
最後に誰かと言葉を交わしたのが、いつだったのか。
『……イリス』
名前を呼ぶと、かすかに反応があった。自分の名前には反応する。それだけは確かだ。
『私、あなたの心の中にいるみたい。だから、言葉にならなくてもいい。頭に浮かんだものを、そのまま見せてくれるだけでいいよ』
また何かが流れ込んできた。今度はさっきの場面。銀灰の髪。鋼の胸当て。左腕に抱き上げられた瞬間。
──あの体温。
映像というより感覚の再生だった。頬に伝わった金属の冷たさと、その奥の熱。心臓の音。持ち上げられて足が地面から離れた、あの浮遊感。そして見上げた蒼い瞳。
頬が熱くなる。耳まで赤くなっていく。
これはイリスが見せようとして見せたのか?
違う。感情が溢れて制御できなくなっているだけだ。
この子は自分の気持ちを隠す方法も知らない。
心を閉じるという技術は、心を開いた経験がある人間にしか身につかない。
『……あー。なるほど。あの人のこと、気になってるんだね』
強い拒絶の感情。
真っ赤な、燃えるような恥ずかしさが頭の中に爆発する。
押し返される。
出て行けとも違う、もっと切実な「見ないで」。
思わず笑ってしまった。心の中で、声を出して。
『ごめんごめん。見ないふりする。でもね、それ、すごく普通の反応だよ』
恥ずかしさの中に、小さな波紋。
「普通」という言葉に、何かが揺れた。
自分が「普通」だと言われたことが、この子にはなかったのだと思う。
それから少しの間、静かだった。イリスが落ち着くのを待つ。
急かさない。
患者のペースに合わせる。
それが基本だ。
やがて、何かが届いた。
映像ではなかった。感情の塊でもなかった。
もっと小さくて、もっと危うい何か。
たどたどしく、壊れそうな、でも確かに意味を持った思念の欠片。
『……れい、こ』
名前だ。私の名前を、呼ぼうとしている。
生まれて初めて──文字の上ではなく、誰かに直接、言葉を向けている。
目の奥が熱くなった。看護師十年目で、泣くことなどとっくに忘れたと思っていたのに。
『うん。ここにいるよ。イリス』
また沈黙。
それから、ゆっくりと──本当にゆっくりと、砂時計の砂が一粒ずつ落ちるように
──感情に色がついた言葉が、滲み出してきた。
『……へん、な、ひと』
変な人。二度目だ。でも今度のは、さっきより少しだけ温かい。
拒絶ではなかった。
たぶん、この子なりの受け入れ方だった。
ひとつ、聞きたいことがあった。
看護師としてずっと気になっていたこと。でも今のイリスに複雑な質問を投げるのは早い。
それでも、聞かなければならなかった。
『イリス。ひとつだけ教えて。声が出ないのは──体が悪いから?』
この体に入った瞬間から感じていた。喉の構造、声帯の位置、気道の通り方。発声に必要な器官は、すべて揃っている。看護師になって気管挿管を何百回と見てきた感覚が、そう言っている。
この体は、声を出せるはずの体だ。
なのに、出ない。
長い沈黙が落ちた。
恥ずかしさとは違う、もっと深くて暗い感情が滲んできた。悲しみでもない。もっと古い。生まれる前から刷り込まれたような、重い重い諦め。
映像が来た。
声のない母。声のない祖母。
その向こうに、声のない女たちの影が連なっている。
何人も、
何人も。
どこまで遡っても、声が無い。
理由は知らない。
そういうものだと教えられた。
そういうものだと信じて生きてきた。代々、ずっと。
イリスの思念が、震えた。
『……わから、ない』何代分もの沈黙が詰まっていた。
──遺伝じゃない。
看護師の直感が叫んでいた。
遺伝なら必ずムラが出る。でもこの家系に生まれた女性は全員、あかんぼうのころから泣き声も出せない。
……これは身体の問題じゃない。仕組みが違う。
器官が揃っているのに声が出ない。それが代々、女にだけ起きている。
これは病気でも障害でもない。何か別のものが、この子たちの声を塞いでいる。
『イリス。あなたの声が出ない理由、私、一緒に探すよ』
返事はなかった。
でも、細い指がそっと自分の喉に触れた。生まれてから一度も音を出したことのない喉に。
その指先が、かすかに震えていた。
明日、第4話更新します。
声の出ない少女が、初めて誰かの命を救います。




