第2話「戦鬼」
銀灰色の影が、視界を塞いだ。
いや──視界を塞いだのではなかった。
私は、宙に浮いていた。
左腕一本で、この小さな体ごと持ち上げられている。鋼の胸当てに押しつけられた頬に、硬い金属の冷たさと、その奥から伝わる体温。革と汗の匂い。心臓の音が聞こえる。
この人の心臓の音が、速い鼓動で私の頬を叩いている。
何が起きたのか、わからなかった。
わかったのは、地面から足が離れていること。片腕だけで宙に浮かされていること。そして──。
「ガッ──」鈍い音がした。
視界の端で、男の右手が錯乱した兵士の剣を掴み止めていた。
革の手袋越しに刃が食い込んで、血が滲んでいる。なのに、この人の腕は微動だにしない。
「……落ち着け」
低い声が、頭の上から降ってきた。怒りでも苛立ちでもない。感情を削ぎ落としたような、静かな声。
それなのに、周囲の空気が凍りついた。天幕の間を行き交っていた兵士たちが足を止め、息を呑んでいる。
錯乱した兵士がなおも暴れる。
掴まれた剣を外そうともがき、獣のようなうめき声を上げる。
男は間合いを詰め、兵士の手首をひねり上げ、剣を弾き飛ばし、そのまま地面に押さえ込んだ。
左腕に私を抱えたまま。片手で。一瞬だった。
「薬草の効きすぎだ。縛って寝かせろ」
駆けつけた兵士たちに短く指示を出す声を、私は鎧に押しつけられたまま聞いていた。
熱い。
鋼の胸当ての下から伝わる体温が、こんなにも熱い。
この体──イリスの体は、こんな温度を知らなかった。
誰かに抱き上げられたことも、誰かの心臓の音をこんなに近くで聞いたこともない。
十何年分の記憶の中に、この感覚だけがどこにもない。
恐怖を忘れていた。
剣を振り下ろされた恐怖も、見知らぬ体に入り込んだ混乱も、この熱さの前では霞んでしまう。
頬が、耳が、首筋まで血が昇っていく。それが鋼の奥の熱なのか自分の体温なのか、もう区別がつかない。
見上げる。
銀灰の髪は無造作に後ろへ流されているだけで、整えた形跡がない。
日に焼けた肌に、深く刻まれた眉間の皺。鼻筋は一度折れたのか、わずかに曲がっている。
顎の線は岩を削り出したように硬く、無精髭が影を作っている。
だが目を逸らせない顔だった。そして──蒼い瞳。
肩幅は並の兵士の倍はある。鎧の上からでもわかる厚い胸板と、丸太のような首。イリスの頭がちょうど胸の高さに来る。この体躯が大剣を振り回して戦場を駆ければ、戦鬼と呼ばれるのも当然だろう。
なのにこの腕は今、小さな少女一人を落とさないように、鋼の下で力加減をしている。
冷たいのに、どこか哀しいその目。
人を斬ることに慣れた目。その目が、腕の中の少女を見下ろしている。
心臓がうるさい。
この子の心臓が、ばくばくと暴れている。怖いからじゃない。これは──。
男が、ゆっくりと私を地面に降ろした。両足が土を踏む。膝が震えて、立っていられない。
「怪我はないか」
短い言葉。声は低く、抑揚がない。
答えなければ。でも、喉が動かない。この子の体だ。声が出ない体。口を開いても、空気が漏れるだけで何の音にもならない。
紅い瞳が揺れる。
男の蒼い目が、わずかに細くなった。その視線がゆっくりと下がり、私の──この子の手元で止まる。
「……お前がやったのか」
その問いに、空気が変わった。
あの目が、私の手元を見ている。
さっき剣を逸らした籠手を、まだ握りしめている細い指を。
この人は見ていたのだ。振り返りざまに籠手を掲げた、あの一瞬を。
視線が上がり、私の目を射る。
値踏みではない。もっと鋭い、答えを探す目だった。
——周囲の気配にも気づかなかったはずの下働きが、なぜ剣を逸らせた?
そう問うている。声に出さなくても、わかる。
でも答えられない。
私自身にもわからない。体が勝手に動いた。
しかも今の私は膝が震えて立つこともできず、籠手を持つ手すら自分の意思で動かせていない。
さっきの動きを見せた人間と同じ体だとは、この人にも信じられないだろう。
眉間の皺が、わずかに深くなった。
「……副団長!」
兵士の一人が駆け寄ってきて、報告を始める。
男の視線が私から外れた瞬間、体から力が抜けた。膝が折れて、そのまま地面に座り込む。
副団長。この人、副団長と呼ばれた。
胸板の熱さが、まだ頬に残っている。鋼の向こうの心臓の音が、まだ耳の奥で鳴っている。
『──聞こえる?』
声がした。頭の中で。自分の声ではない。でも聞き覚えがある。
私の声だ。玲子の声が、この子の頭の中に響いている。
『あなた……誰? ここはどこ?』
返事はない。
当然だ。この子は声が出ない。でも、何かが返ってくる。言葉ではなく、言葉にならない何かの塊。怯え。混乱。そして──怖い。怖い怖い怖い。何が起きたの。誰なの。出て行って。
でもその恐怖の底に、もうひとつ。あの温度の残響。
あの腕に抱き上げられた数秒間だけ、この子の恐怖が消えていたことを、私は知っている。
『大丈夫、怖くない。私はあなたを助けたかっただけ』
怯えが、わずかに揺らいだ。
ずっと一人だったのだ、この子は。声を出せないまま、誰にも聞いてもらえないまま。
そこへ突然、頭の中に知らない誰かが入ってきた。怖くないはずがない。
『ごめんね。気味が悪いよね。まず聞いて、私も、何がなんだかさっぱりわからないの』
周りを確認するようにぐるぐる見渡しながら感情が返ってくる。混乱。でも、さっきより少しだけ柔らかい。
そして、かすかな言葉の断片が聞こえた。言葉というには頼りない、ほとんど消えかけの思念。
『……あなたはどこにいるの。わたし、の、なか……?』
見える。聞こえる。あなたの心の中にいるみたい。
そう伝えようとしたとき、影が落ちた。
顔を上げると、さっきの男が再び目の前に立っていた。片膝をついて、視線をこちらに合わせている。
「立てるか」
低い声が、頭の中の対話を断ち切った。差し出された手は大きくて、傷だらけだった。
さっき剣を掴んだ右手。革の手袋の上から新しい血が滲んでいる。
──この人、怪我してる。
看護師の目が、反射で傷を追った。切創。深くはないが、手当てをしないと化膿する。救命センターなら消毒して縫合して、抗生物質の点滴、破傷風のワクチンを確認して──。
ここは、救命センターじゃない。
見上げた先に、あの冷たい光がある。
何も言えない。
何も返せない。
声は出ない。
でも口が動いた。
声にならない、唇だけの言葉。
──ありがとう、ございます。
その目が、一瞬だけ揺れた。
「……名前は」
答えられない。答えたいのに。この子の名前すら、私はまだ知らない。
頭の中で、消えそうな声が震えた。
『……イリス』
イリス。この子の名前はイリスだ。
でもそれを伝える術がない。声は出ない。筆談の道具もない。紅い瞳が潤んで、差し出された大きな手の上に、小さな雫がひとつ落ちた。
男は、何も言わなかった。
差し出した手をそのままに、静かに待っていた。
第3話「二人の声」は本日公開中です。




