第1話「救命センターの最期」
代々、女たちはみな声を持たずに生まれてきた。それを「遺伝」だと信じて。
――それが千年続く呪いだと、誰も知らなかった。
ピッ、ピッ、ピッ――規則正しい電子音が、夜の底に沈んでいく。
午前三時。救命センターのLED照明は、眠りを許さない。
患者の顔色、血液の色、傷のわずかな変化――それらを見逃さないための光だ。
三十歳になって、この光にも慣れた。
慣れたくなんて、なかったんだけど。
整形外科なんかいいんじゃない。
あんまし容態の急変とかもないし、たまに試合中の怪我とかで若いイケメンが入院してくるし。
――後ろでアラームが跳ね上がる。
反射で振り向いた。
ベッドの上で、さっきオペ室から戻ったばかりの患者が起き上がってる。
二十代の男性。腹部刺創による自損。
術後は鎮静継続――朝まで意識は戻らないって申し送りを受けたけど。
目が合う。
焦点が合っていない。
ここを見ているのに、ここを認識していない目。
いっちゃってる目だ。
「大丈夫です。ここは病院です。安全な場所――」
声を落として、刺激しないように、そっと近づく。
聞いてない。
患者の手が、点滴スタンドを掴んだ。
まずい、と思った瞬間には遅かった。
倒れた点滴スタンドが金属トレーを弾き飛ばし、甲高い音が響く。
トレーの中身が床に散らばり、採血用の管が白い光を反射して跳ねた。
もう片方の手が、こちらに伸びる。
避けきれない。
喉に、指が食い込む。
一気に締め上げられた。
「先生! 応援お願いします!」
声を張る。
出るうちに、とにかく出す。
指の力が強い。若い男の、全力の握力。
気道が潰れる。空気が入らない。
振りほどけない。
ベッドからこの男を引き倒せば外れるかもしれない。
でも、それはできない。
腹部は術直後だ。ここでベッドから転落すれば、間違いなく二本入ったドレーンは抜け、創部も裂ける。
――この人は、死ぬ。
それは選べない。
だから私は、締められながら空いた手を伸ばした。
ナースコール。
届くかどうかもわからない距離に、指を引きずる。
押せた。
――たぶん。
「せんせぇ……おうえん……」
二度目の声は、途中で途切れた。
胸の奥で、何かが弾けた。
鈍い衝撃。
倒れたトレーの角か、振り回されたスタンドの先か――わからない。
ただ、肋骨の内側に、あってはいけない熱が広がっていく。
痛みは、ない。
不思議なほどに。
救命で何度も聞いた。
本当に深い損傷は、痛みを伴わないことがあると。アドレナリンがすべてを覆い隠すから。
――ああ、本当だったんだ。
視界の端から、光が遠のく。
膝が折れる。
床のリノリウムが、頬に冷たい。
足音が聞こえる。ナースシューズの、複数の足音。
遅い。
いや、間に合う。ここは救命センターだ。
人を、死なせないための場所。
――だから。
でも、体が動かない。
指先から順番に、感覚が消えていく。
アラーム音が重なり、世界が歪む。
騒音の中心で、すべてが遠ざかっていく。
私、ここで終わるんだ。
――そんなの、嫌だ。
まだ救いたい人がいる。
今夜の夜勤が終わったら、有休を取って、母さんに会いに行こうと思っていたのに。
意識が、ふっと浮き上がる。
身体から、切り離されるみたいに。
その瞬間――すべての音が、消えた。
*
目を開けると、空が違っていた。
抜けるように青い空。雲の流れ方が、日本のそれじゃない。
「……え?」
声を出したつもりだった。でも、声は出ない。というより──私には、口も体も、無かった。
私は、宙に浮いていた。
眼下に広がるのは、見渡す限りの草原。そこには、泥と血と鉄の匂いが混じり合い、叫びと祈りが交錯する混沌の中で、人が人を押し潰している。
戦場だ。
中世ヨーロッパの絵本でしか見たことのない、戦場。
遠くには無数の天幕が並んでいる。その合間を、鎧を着た男たちが行き交っている。鎧。本物の、鋼の。担架で運ばれていく男の腹からは、鮮やかな赤が滴っている。
私は不思議とそこに吸い寄せられた。
体が無いはずなのに、感覚だけが押し寄せてくる。鉄錆びた血の匂い。救命センターで毎日嗅いでいたのとは桁が違う、濃い、生々しい匂い。男たちの怒号。うめき声。どこかで馬が嘶いている。天幕の裂け目から、焼けた肉の匂いが立ち上っている。
ここは本物だ。夢じゃない。
「うそ、でしょ……」
声にならない声で呟いた瞬間、視界がぐるりと回転した。
さらに引き寄せられるように、ある一点に向かって落ちていく。
天幕と天幕の隙間。運ばれてきた男の重い鎧を一生懸命に脱がせている小さな影。
水色の髪に紅い瞳。涙が溜まって、何かを諦めたようなその目をした少女だった。
ところどころに血液が付着した麻の服。十五か、十六か。栄養が足りていないのか、手首が折れそうなほど細い。
その子のすぐ近くで、包帯だらけの兵士がふらりと立ち上がった。目が、おかしい。焦点が合っていない。──あの目は、ここに来る前の救命センターで見た目と同じ現実を見ていない目だ。
兵士の手が、傍らの剣を掴んだ。陽光が刃を白く光らせる。
少女はまだ気づかない。顔を伏せたまま、重い鎧と格闘している。
「危ない!」
私の声は、誰にも届かない。
逃げて。逃げてよ、お願い、立って!
口を開くけれど、そこからは何の音も出ない。
兵士が剣先を地面に引きずりながら少女に近づいている。
その瞬間、腹の底から衝動が突き上げた。
救命センターで叩き込まれてきた本能。目の前で人が死ぬのを、ただ見ていられるはずがない。
私は──飛び込んだ。
紅い瞳の、その奥へ。
落ちる。
暗い。深い。水の底に沈んでいくような感覚。でも息苦しさはない。さっきまで感じていた胸の熱さも、首の痛みも、全部消えていた。
代わりに、別の何かが流れ込んでくる。
寒い。お腹が空いている。体中がだるくて、重い。
この子の感覚だ。
この体に沈んでいく瞬間、少女の十何年分の感情が一気に押し寄せてきた。
声が出ない。この子は口がきけない。助けを呼べない。叫びたいのに、喉が動かない。
この子はずっと、この沈黙の中にいたんだ。
目を開ける──いや、開いた。
視界が変わっている。宙から見下ろしていた世界が、地面の高さになっている。
見覚えのない細い手が重い鎧の籠手を持っている。私の手じゃない。この子の手だ。
体が動かない。
この子の体は私の思い通りにならない。筋肉の使い方が違う。神経の繋がり方が違う。リノリウムの床ではなく、踏み固められた土の上で、見知らぬ体が凍りついている。
でも。
反射は、体じゃなくて魂に刻まれている。
──動け。
背後の気配。俯瞰で見ていた記憶が、体より先に反応する。
振り向きざま、手にしていた鋼の籠手を掲げた。
衝撃。
剣が籠手を打ち、軌道が逸れる。刃が耳のすぐ横を通過して、荷箱の木蓋に深く突き刺さった。
兵士が剣を引き抜こうとして、もたつく。
その間に、少女の──私の口が、声にならない悲鳴を上げた。
喉が震えるだけで、何も出ない。誰にも聞こえない。
足音が、近づいてくる。
重い。速い。鎧が軋む音。地面を蹴る力強さが、振動になって伝わってくる。
兵士がようやく剣を引き抜き、もう一度振りかぶった、その瞬間。
銀灰色の影が、視界を塞いだ。
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次話、銀灰の男が動きます。




