第10話「戦鬼の素顔」
アデスは帰らなかった。
視察使節団は翌日に王都へ発ったが、アデスだけが前線に残った。
護衛の騎士を二名つけ、用意された天幕に腰を据えて、毎日のように医療班を訪れた。
「お手伝いさせてくださいませんこと? わたくし、何もせずにいるのは性に合いませんの」
ヘルマンは愛想よく迎えた。
メルヴィス家の令嬢だ。機嫌を損ねる理由がない。
「ご加減はいかがですこと?」
板の上に横たわるその男は、頭に巻かれた布の下からじわりと血を滲ませていた。
顔は青白く、唇は乾いてひび割れている。
アデスはその傍らに膝をつく。
白い手袋越しに、そっと男の手に触れた。
その手を握り返すと男のまぶたが、わずかに震える。
「……ありがたや……」
その言葉は、場にいた誰にとっても救いだった。
ただ、イリスにとっては、アデスの訪問は地獄だった。
アデスは毎日来るたびに、イリスに声をかけた。
「お返事はできなくても、頷きだけでも十分役に立っていますわよ」
励ましのつもりだった。
声が出なくても大丈夫、あなたにもできることがある、と伝えたいのだろう。
碧い瞳に悪意はない。微笑みに裏はない。
でもその言葉は、「あなたにできることは頷くことだけ」と言っているのと同じだった。
「もし声が出せたら、きっともっと良い看護師になれますのに……惜しいですわね」
惜しんでいるのだ。
本当に。
この人は、イリスの才能を認めた上で、声が出ないことを残念だと思っている。
善意から出た言葉だと、顔を見ればわかる。
でも。
「もし声が出せたら」。
その言葉が、胸に刺さって抜けない。
声が出たら、もっと良くなれる。
つまり今のままでは足りないのだと、この人は笑顔で言っている。
『……あの人、悪気がないのが一番タチ悪いのよね。本当に悪気がないから、余計に』
玲子の声が、頭の中で苦く響いた。
救命センターにもいた。
患者に「頑張ってね」と言う家族。
「あなたなら大丈夫」と言う見舞い客。
その一言がどれだけ患者を追い詰めるか、わかっていない。
善意が人を殺すことがある。
大袈裟ではなく、本当に。
ゼクスは、アデスを避けていた。
露骨ではない。
任務を理由に天幕を空け、報告の時間をずらし、食事の場を変えた。
だがアデスはめげなかった。
見つけるたびに嬉しそうに近づき、話しかけ、笑いかけた。
「ゼクス様、今日のルーゲンの戦況はいかがでしたか?」
「……変わらん」
「まあ。お怪我はございませんこと?」
「ない」
「よかったですわ。わたくし、心配しておりましたの」
ゼクスの眉間に皺が寄る。
しかし「心配している」と真っ直ぐに言われると、邪険にもできない。
不器用な男だった。
悪意のない人間を突き放すことが、この人にはできない。
トビアスが、夕方の水汲み場でイリスに囁いた。
「あの令嬢、いつ帰るんだ。副団長がめちゃくちゃ機嫌悪いぞ」
イリスは首を横に振った。知らない。
「お前も大変だよな。毎日あんなこと言われて」
トビアスの顔には素直な怒りがあった。
この青年は感情を隠せない。イリスが傷つけられているのが、自分のことのように腹が立っている。
自分でもその理由がわからないまま。
その夜だった。
医療班の仕事を終えて天幕を出ると、空には満天の星が広がっていた。
ルーゲンの城壁が、月光に照らされて黒い影を落としている。
野営地は静かだった。見張りの兵士が時折、低い声で合言葉を交わす音だけが聞こえる。
ふと、天幕の裏手に人影を見た。
月明かりの中に、大きな影が佇んでいた。銀灰の髪が白く光っている。
ゼクスだった。
一人で立っている。
鎧も外して、粗末な麻の上着だけ。
あの大きな体が、鎧がないとこんなにも剥き出しに見えるのかと思った。
近づこうとして、足が止まった。
ゼクスの手が、何かを握りしめていた。
小さな布の袋。
古びて、色が褪せて、端がほつれている。
ゼクスの大きな手に、不釣り合いなほど小さい。
その手が、震えていた。
あの手が──革の手袋越しに剣を掴み止めた手が、片腕でイリスを抱き上げた手が、大剣を片手で振り回す手が──小さな布袋を握りしめて、震えていた。
「…………」
声が聞こえた。ゼクスの声ではない。
ゼクスは何も言っていない。
聞こえたのは、声にならない音だった。
喉の奥から、意図せず漏れるような。
泣いているのだ。
戦鬼と呼ばれた男が、月の下で、声を殺して泣いている。
イリスの足が動いた。考えるより先に。
枯れ草を踏む音で、ゼクスが顔を上げた。
蒼い瞳が月光を反射して光っている。頬は乾いていた。
涙の跡はない。この人は泣いても涙を流さないのだと思った。
蒼い瞳が、イリスを認めた。
一瞬、体が強張った。見られた、という顔。
イリスは立ち止まった。
近づくべきか、離れるべきか。
ゼクスの手がゆっくり開いた。
握りしめていた布袋の中に、小さな木彫りの人形が見えた。
粗い彫りの、素朴な人形。兵士が暇な時間に削るような。
「……少年兵だった」
低い声が、夜の空気に溶けた。
「俺の隊にいた。十五の小僧だ。先月の突撃で死んだ。……俺が先頭に立つべきだった」
短い言葉。
それ以上は続かなかった。
この人は長く話せない。
言葉にすると壊れてしまうものを、この人はいくつも抱えている。
イリスは落ちていた木の棒で地面に震える手で書いた。
『今日 あなたが守った人 あの子もよろこんでる』
拙い文字。歪んで、大きさも揃わない。
ゼクスは、月明かりの下で、しばらくそれを見つめていた。
「……そうか」
それだけ言って、布袋を懐にしまった。
戦鬼の仮面が、完全に外れた瞬間だった。
この人は怖くない。
怖い人ではなかった。
傷ついて、悔やんで、死んだ部下の遺品を夜ごと握りしめている、ただの男だった。
イリスの紅い瞳が、蒼い瞳を見上げていた。月光が二人の間に落ちている。
声は出ない。何も言えない。
でも、この沈黙は苦しくなかった。
この人の傍の沈黙は、いつだって苦しくない。
ゼクスが口を開きかけた。
何か言おうとして、やめた。代わりに、大きな手がイリスの頭にそっと触れた。
一瞬だけ。髪を撫でるでもなく、ただ、乗せただけ。
その手の重さが、頭の上に残っている。
天幕に戻ろうとした時、視界の端に金色が揺れた。
天幕の影に、アデスが立っていた。
碧い瞳がこちらを見ている。
胸元を片手で押さえて、唇を噛んでいた。
明日、第11話更新します。
第1部「声なき手」、最終話です。




