第11話「守ると決めた」
それは、包帯の時間に起きた。
いつもと同じ昼前。ゼクスの天幕に入り、手の傷を確認し、瞳孔を診る。
毒の後遺症はもう消えていた。瞳孔の反応は正常。
手の切創も薄い皮膚が張り始めている。
もう、通う理由がなくなりつつあった。
でもゼクスは何も言わなかった。「もう来なくていい」とは言わなかった。イリスが天幕に入ると「来たか」と言い、イリスが包帯を解くのを静かに待ち、終わると唇の動きを見つめた。毎日、同じように。
今日もそうだった。
包帯を巻き直し、結び目を整え、立ち上がる。一礼する。声のない口が動く。
──お大事に。
ゼクスの蒼い瞳が、イリスの唇を追った。まだ読めていない。何を言っているのかわからないまま、でも毎日見つめている。
その瞬間だった。
頭の中で、何かが弾けた。
痛い。
頭が割れるような痛みが、前触れなく襲ってきた。視界が白く染まる。膝が折れる。手が何かを掴もうとして、空を切った。
「──おい!」
ゼクスの声が遠くから聞こえた。体が倒れる前に、太い腕に支えられた。
だが、その腕の感触が消えていく。
代わりに、別のものが流れ込んできた。
暗い部屋。
石の壁。小さな窓から月光が差している。鉄の匂い。冷たい空気。床に散らばる古い書物。蝋燭の灯りに照らされた──人影。
フードを被った人物が、何かを唱えている。聞き取れない言語。低い、粘りつくような声。
その前に、女が跪いていた。
水色の髪。若い女。手首を鎖で繋がれて、必死にもがいている。口が動いている。何かを叫んでいる。だが声が出ない。声は──もう、出ないのだ。
その腕の中に、小さな子供が抱かれていた。泣いている。声を上げずに泣いている。涙だけが流れている。
「巫女の血を──封じなければ──」
フードの声が、ようやく聞き取れた。
「──二度と、声など──」
映像が裂けた。暗い部屋が崩れ、石の壁が砕け、全てが白い光の中に溶けていく。
「イリス!」
ゼクスの声が、全てを引き戻した。
目を開けると、体が宙に浮いていた。
ゼクスの腕の中だった。寝台から転げ落ちたイリスを、ゼクスが床の上で抱き止めている。岩のような腕に囲まれて、鋼の胸当てではなく麻の上着越しに、直接体温が伝わってくる。
心臓の音が聞こえる。
速い。この人の心臓が、速く打っている。
「おい。聞こえるか。何があった」
低い声が、頭の上から降ってくる。
いつもの無感情な声ではなかった。焦っている。
戦鬼と呼ばれた男が、声の出ない少女一人のために、焦っている。
イリスの体が震えていた。
さっきの映像が、まだ頭の中に残っている。
暗い部屋。鎖。呪文。水色の髪の女。腕の中の子供。
あれは──誰。あの女は、誰。あの子供は──。
恐怖が溢れ出した。
言葉にならない。意味もわからない。
ただ、怖い。何かが自分の奥底で蠢いている。
千年分の暗闇が、蓋を開けようとしている。
イリスの手が、ゼクスの上着を掴んだ。
しがみついていた。生まれて初めて、自分から誰かにしがみついていた。
声のない口が開いて、喉が震えるだけ。何も出ない。涙だけが、止まらない。
ゼクスは何も言わなかった。
何も聞かなかった。「どうした」とも「泣くな」とも言わなかった。
ただ、腕の力を少しだけ強くした。
壊れ物を扱うように。でも離さないように。
あの大きな腕が、震える小さな体を包んでいた。
どれくらいそうしていたのか、わからない。
涙が止まった後も、しばらく動けなかった。
ゼクスの胸に額を押しつけたまま、心臓の音を聞いていた。
速かった鼓動が、ゆっくりと落ち着いていく。
「……お前の体に何が起きているのか、俺が必ず突き止める」
低い声が、真上から落ちてきた。
イリスが顔を上げた。涙で滲んだ紅い瞳に、蒼い瞳が映っている。
「俺は戦うことしか知らない。薬草の知識も、お前の手が光った理由も、わからん」
光った。この人は、あの光を見ていた。
いつ。
あの夜、天幕を覗きに来た時か。それとも今か。
「だが──お前を守ることなら、わかる」
短い言葉だった。飾りのない、不器用な、ゼクスの言葉だった。
「もう目の前で守れなかった奴を増やすわけにはいかない」
短い沈黙。
「……それだけじゃない。だがそれ以外の理由は、まだ言葉にならん」
心の奥で、玲子の声が震えた。
『……良かったね、イリス』
良かったのかどうか、まだわからない。
でも、この腕の中が温かいことだけは、確かだった。
イリスの唇が動いた。いつもの言葉ではなく、別の言葉。声にならない、唇だけの形。
──ありがとう、ございます。
ゼクスは今度も読めなかった。
でも、唇が動いたことだけは見ていた。
その目が、ほんの一瞬だけ、柔らかくなった。
その夜、前線から王都に向けて一通の手紙が発たれた。
差出人はアデス・メルヴィス。宛先は、メルヴィス家当主。
『前線で声の出ないお嬢さんが、身元もわからぬまま働いております。
お家の方がさぞご心配されていることと存じます。
お父様のお力でこの方のお家を探してさしあげることはできませんでしょうか——』
王都の屋敷で、誰かがその手紙を開く。
「……ほう。この娘は──」
手紙に添えられていたのは、水色の髪と紅い瞳の少女の特徴を記した走り書き。
その紙を持つ手が、微かに震えた。
第1部をお読みいただきありがとうございます。
明日から第2部「消えた記録」が始まります。
声のない少女の物語は、ここからが本番です。




