第2部 第12話「消えた記録」
角笛が鳴った。
真夜中の野営地に、甲高い警報が響き渡る。続けて二度、三度。敵襲を告げる音。
『夜襲だ!』
玲子の声と同時に、天幕の外で怒号が炸裂した。金属がぶつかる音。悲鳴。馬の嘶き。暗闇の中で松明が次々と灯り、半裸のまま鎧を掴む兵士たちの影が走り回っている。
ここ五日、ルーゲンの城壁の向こうは沈黙していた。偵察隊が「敵は兵を引いた」と報告し、前線には束の間の弛緩が漂っていた。
罠だったのだ。
『イリス、医療天幕に行って。負傷者が来る』
体が動いていた。考えるより先に。数か月前なら怯えて丸くなっていただろう。でも今は違う。足が勝手に走り出す。
王立第三騎士団は八百の精鋭で編成された遠征軍だ。攻城戦に八百は多くない。だからこそ一人の死傷が重い。夜襲で十人も失えば、戦線が崩れかねない。
医療天幕に飛び込むと、もう二人の衛生兵が布を広げていた。ヘルマンは既に奥にいた。運び込まれた兵士の鎧を剥がしながら、焼きごてを火にかけている。いつもの処置だ。傷口を焼いて塞ぐ。
でも今夜は、それでは間に合わない。松明の明かりが揺れる中、負傷者が次々と担ぎ込まれてくる。
腹部の刺創。出血が多い。
次。矢が肩に刺さったまま。折れている。抜くより先に止血。
次。頭部の打撲。意識はある。後回し。
『トリアージよ、イリス。重い順に分けて。動ける人は自分で止血させて。生死に関わるような負傷者から処置する』
わかってる。もう何度もやった。声は出ないけれど、手が覚えている。腹部の刺創の兵士に駆け寄り、圧迫止血を始めた。
「女先生が来た!」
誰かが叫んだ。女先生。いつの間にか、兵士たちが私をそう呼ぶようになっていた。
次々と運ばれてくる負傷者を捌きながら、時間の感覚がなくなる。血と汗と土の匂い。呻き声。「助けてくれ」という声。救命センターの夜勤と同じだ。目の前の命に集中する。それだけ。
どれくらい経った頃か。外の怒号が遠ざかり始めた。角笛が今度は短く一度だけ鳴る。撤退を知らせる音。敵の。
夜襲は退けられた。だが被害は軽くない。私が処置した重傷者が七人。衛生兵たちが対応した軽傷者はその倍以上。そして──戦死が三名。天幕の外に並べられた遺体に、白い布がかけられていく。
全力を尽くしても、間に合わない命がある。救命センターでも同じだった。慣れることはない。
肩で息をしながら最後の兵士の傷口を縫い終えた頃、空が白み始めていた。
天幕の入口の布が揺れた。
銀灰の髪。鎧に返り血を浴びたまま、ゼクスが立っていた。蒼い瞳がぐるりと天幕の中を見渡し、私を見つけると──一瞬だけ、力が抜けたように瞬きをした。
無事か、と問うように。
声には出さない。私も頷くだけ。
ゼクスは何も言わず、踵を返しかけた。その時、左の二の腕から血が伝っているのが見えた。
立ち上がっていた。考えるより先に、体が動いていた。ゼクスの腕を掴む──いや、掴めない。太すぎて、両手でも指が届かない。細い指がそっと傷口の横に触れただけだった。
ゼクスが足を止めた。蒼い瞳が、見下ろしてくる。
「かすり傷だ」
かすり傷じゃない。浅いけれど長い裂傷で、放っておけば化膿する。看護師の目はごまかせない。
天幕の中を指差す。座って、という身振り。
ゼクスは一瞬だけ何か言いかけて、やめた。黙って天幕の中に入り、木箱の上に腰を下ろした。
八百人を率いる副騎士団長が、声も出せない下働きの少女に言われるまま、おとなしく座っている。
『……あの戦鬼を座らせるの、あなただけだと思うよ』
玲子の声を無視して、傷口を洗い始めた。ゼクスはじっとしている。蒼い瞳が、手当てをする私の手ではなく、私の顔を見ていることに、途中で気づいた。
顔が熱い。手が止まりそうになる。
止めなかった。患者の前で手を止める看護師はいない。
包帯を巻き終えた後、いつものように唇が動いた。お大事に。
ゼクスの目が、わずかに細くなった。
「……それか」
え?
「お前がいつも最後に言っている言葉は、それか」
心臓が止まった。読まれていた。唇の動きを、ずっと。
ゼクスは何も待たず、立ち上がって天幕を出ていった。
残されたのは、包帯の結び目と、耳まで赤くなった、私の顔だけだった。。
*
負傷者の容態が安定して、ようやく天幕を出られたのは昼近くだった。
野営地の入口で、護衛の騎兵に囲まれた馬車が出発するところだった。その窓から、金色の髪がちらりと見えた。
アデス・メルヴィスだ。
「夜襲でお怪我をされなくてよかったですわ。でもこのような危険な場所に、か弱い女性を置いておくなんて。わたくし、お父様に申し上げなくては」
馬車の中から聞こえた声は、いつもと変わらず穏やかだった。誰に向けたのかはわからない。でもその視線が一瞬だけ、医療天幕の方──私の方を掠めた気がした。
馬車が土埃を上げて去っていく。
『……帰ったね。でもあの台詞、「お父様に申し上げる」って──』
玲子の声が低い。報告するという意味だ。何を。誰のことを。
嫌な予感を振り払うように、井戸へ向かった。
その途中、妙なものを見た。
指揮天幕の裏手に、見覚えのある人影が二つ。補給の荷馬車と一緒に来た商人たち。商人にしては目が鋭く、手も荷仕事に似合わなすぎる。
夜襲の後始末の混乱に紛れて、指揮天幕の布の隙間を覗き込んでいる。
『動かないで。気づかれたら面倒なことになる』
暗がりに身を潜めた。数秒後、二人の影は音もなく野営地の外縁へ消えていった。
誰の差し金だろう。あの令嬢は去った。でもこの連中は残っている。令嬢の背後にいる誰かが、まだここを見ている。
*
翌日。ゼクスが来た。
「来い」
野営地の外れ、見張り台の陰。人目を避けた場所で、ゼクスが足を止めた。振り向く。蒼い瞳が、まっすぐにこちらを捉える。
「お前のことを調べた」
心臓が跳ねた。あの夜、「お前の体に何が起きているのか、俺が必ず突き止める」と言ったのは空言ではなかったのだ。
「出生記録がない。どの村にも、どの街にも、お前の記録はなかった」
短い言葉が、鉛のように落ちた。
「グレゴールに頼んで、もう少し遡った」
ゼクスの声が、わずかに低くなった。
「ルーゲン近郊の山間に、古い集落の記録がある。数十年前に廃村になった場所だ。そこには──生まれた女が代々声を出せないという家があったそうだ」
息が止まった。
代々、声を出せない女。
『イリス──』
玲子の声が震えている。あの日、初めてイリスに聞いた言葉が蘇る。お母さんも、声が出なかった。おばあちゃんも。その前も、ずっと。
「知っていたか」
首を横に振る。家の女がみな声を出せないことは知っていた。でもそれを「異常」だと思ったことはなかった。それが当たり前だったから。
ゼクスが一歩近づいた。眉間に深い皺が刻まれている。
「廃村になった経緯が、おかしい。飢饉でもない。疫病でもない。ある日突然、住民が散り散りになっている。しかもその家の人間だけでなく、村ごとだ。隣近所の者も、その家と付き合いのあった者も、まとめて消えている」
『……村ごと? その家だけじゃなくて?』
玲子の声が硬い。
『「あの家の女は代々声が出ない」と知っている人間ごと消したんだ。記憶を持つ者を残さないために』
ゼクスが続けた。
「行方が追えるのは、周辺の村に移った者だけだ。それ以外は──消えた」
膝が震え始めた。
ゼクスの手が、肩に置かれた。重い。大きい。でもその重さが、崩れかけた体を支えている。
「怯えるな」
短い声。だが命令ではない。
「グレゴールが古い文献を当たっている。声を封じられた血筋について、何か見つけたらしい。だがまだ裏が取れていない」
声を、封じられた。遺伝だと思っていた。母も、祖母も、そのまた母も。みんなそう信じて生きてきた。
でも──封じられていたのだとしたら。
「俺が調べている。グレゴールも動いている。何も変わらずにいていい」
視線を逸らし、歩き出す。二歩、三歩。背中が遠ざかりかけたとき、足が止まった。
振り向かないまま。
「お前の手が光ったこと、他の誰にも言っていない。俺とグレゴール以外は知らない」
銀灰の背中が天幕の間に消えていく。
誰が。
なぜ。
答えのない問いが、喉の奥で渦を巻いている。声にならない問いが。
いつか、声になる日が来るのだろうか。
ここから第2部です。お付き合いいただけると嬉しいです。
今話はトリアージシーンを書きたくて、ずっと温めていました。声が出なくても、体が覚えていることがある。玲子(イリスの中の人)にとって戦場の医療天幕は、救命センターとは何もかもが違うようで、でも本質は同じ場所なんだと思って書きました。
「お大事に」がついに届きそうになる場面、伝わっていたら嬉しいです。




