第13話「筆談の夜」
夜襲から三日が経った。
戦死した三名の弔いが終わり、野営地には重たい静けさが戻っていた。城壁の向こうからの動きはない。ゼクスが夜襲の翌日に少数で仕掛けた威力偵察が効いたのか、オルデア側は再び沈黙している。
束の間の、凪。
夕刻の回診を終えて天幕に戻ると、木箱の上に紙と炭筆が置いてあった。
誰が置いたのかは、わからない。でも心当たりはひとつしかない。
『……これ、あの人でしょ』
玲子の声に、心臓が鳴る。
紙の下に、小さな石が重しとして載っている。風で飛ばないように。それだけの気遣いが、あの無骨な人らしかった。
あの日──「それか」と言われた日から、ゼクスとの距離がまた変わった。
前は、守るように近くにいた。今は、知ろうとしている。私のことを。声が出ない私から、言葉を引き出す方法を、この人なりに考えたのだ。
紙と炭筆を抱えて天幕を出ると、西の空が赤く燃えていた。
*
見張り台の下。
ゼクスが座っていた。鎧を外し、革の上着だけの姿。大剣を傍らに立てかけて、城壁の方を見ている。夕焼けに照らされた横顔は、戦場の男というより、疲れた旅人のように見えた。
近づくと、蒼い瞳がこちらを向いた。
「座れ」
隣の地面を顎で示す。座る。肩と肩の間に、拳ひとつ分の距離。近い。いつもより、ずっと。
沈黙が流れた。
ゼクスは何も言わない。空を見ている。風が銀灰の髪を揺らしている。
『イリス、紙。使っていいんだよ』
玲子に促されて、膝の上に紙を広げた。炭筆を握る。何を書けばいいのだろう。
──紙と炭筆 ありがとう
差し出すと、ゼクスが横目で読んだ。
「……ああ」
それだけ。また沈黙。
でも、立ち去らない。ここにいる。隣に。
『聞きたいことがあるなら、書いていいと思う。この人、自分からは聞けないタイプだから』
玲子の言う通りかもしれない。あの低い声で「来い」とは言えても、「話を聞かせてくれ」とは言えない人。
炭筆が、紙の上を走った。
──ケガ だいじょうぶですか
ゼクスが読み、左の二の腕に目を落とした。私が巻いた包帯がまだ残っている。
「もう痛くない」
嘘だ。あの深さなら、まだ引きつれるはず。でも追及しない。この人は怪我を隠す人だから。
──ムリしないで
「……お前に言われるとは思わなかった」
口の端が、わずかに上がった。笑ったのだと気づくまでに数秒かかった。ゼクスが笑うところを、初めて見た。
心臓が跳ねた。跳ねた拍子に、炭筆が紙の上に黒い点を落とした。
『顔。顔が大変なことになってる、イリス』
無視。無視するしかない。
次の言葉を書く。手が震えないように、息を整えて。
──三人の ご家族に 連絡は
ゼクスの目が、一瞬だけ暗くなった。
「した。家族宛ての手紙は、グレゴールが書いた。俺の字は読めたものではないからな」
自嘲。でもその声の裏に、重いものが沈んでいる。この人は全員の名前を覚えている。死んだ部下のことも、生きている部下のことも。
──一人 私がショチした人 間に合わなかった
書きながら、炭筆の先が滲んだ。涙が紙に落ちたのだ。
ゼクスが紙を読み、それから私の顔を見た。何も言わなかった。ただ、視線を空に戻して、長い息を吐いた。
「間に合わなかった命を数えるな。お前が繋いだ命を数えろ」
不器用な慰め。でもこの言葉は、自分自身にも言い聞かせているのだろう。何人もの部下を失ってきたこの人が、それでも前に立ち続けるために。
ゼクスの視線が、膝の上の紙に落ちた。
「お前は、何を考えている時に笑うんだ」
え。
「兵士の包帯を替えている時、たまに口元が緩む。あの時、何を考えている」
見られていた。包帯を替える手元だけでなく、顔まで。
炭筆を握る指が震える。何を考えているか。何を。
嘘は書けない。この人の前では、嘘を書きたくない。
──あなたが ぶじに帰ってきた時
書いた瞬間、顔中の血が沸騰した。何を書いているんだ私は。取り消したい。でも炭筆で書いた字は消せない。
紙を差し出す手が、ぶるぶる震えている。
ゼクスが読んだ。
長い沈黙。
夕焼けが西の空を焼いている。風が止まっている。世界が黙っている。
ゼクスの手が、膝の上の紙に伸びてきた。炭筆ではなく、指で。私の書いた文字の横に、何もない空白を、ゆっくりなぞった。
「……そうか」
低い声。低いのに、柔らかい。聞いたことのない声だった。
ゼクスが空を見上げた。最初の星が、一つだけ瞬いている。
「前線が静かなのは、もって数日だろう」
声が、いつもの硬さに戻っている。でも完全には戻りきっていない。
「次の戦闘で、俺は前に出る。先陣を切らねば、兵の士気が持たない」
先陣。八百人の先頭に立つということ。一番最初に、敵の刃の前に出るということ。
紙に書くより先に、手が動いていた。ゼクスの革の袖を、指先が掴んでいた。引き止めるように。行かないで、と言うように。
声は出ない。いつも通り。
でもゼクスは、掴まれた袖を見下ろして、それから私の顔を見た。紅い瞳が潤んでいることを、暗がりでも見抜いたのだろう。
「死なん」
短い否定。
「死なんから、心配するな」
不器用な言い方。でもこの人の精一杯だということが、もうわかる。指先に力を込めた。離したくない。でも離さなければ、この人は立てない。
ゆっくりと、指を開いた。
ゼクスが立ち上がる。見下ろしてくる。星明かりの中で、蒼い瞳がかすかに光っている。
「お前の声が、聞きたい」
息が止まった。
「あの紙に書く言葉ではなく。お前の声で、聞きたい」
言って、背を向けた。大剣を肩に担ぎ、歩いていく。銀灰の背中が、闇に溶けていく。
残されたのは、膝の上の紙と、読めないほど震えた文字と、星が一つ増えた空だけだった。
『……イリス。泣いてるよ』
知ってる。
でもこれは、悲しい涙じゃない。
声が出たら。もし、声が出たら。
この人に一番最初に言いたい言葉が、もう決まっている。
紙と炭筆を置いておく、というゼクスの気遣いが書けてよかったです。この人、絶対に「話しかけてくれ」とは言えないので。
「あなたが ぶじに帰ってきた時」を書いたイリスの手が震えているのと、読んでいる方の心臓も一緒に震えてくれていたら本望です。
ゼクスの最後の台詞は、この話を書き始める前から決まっていました。ここまで引っ張った甲斐があったかどうか……あったと信じたいです。




