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千年の呪いで声が出ません。でも死んだ看護師が頭の中に転生してきたので、無言で命を救っていたら副騎士団長に溺愛されました。  作者: 花月 宙


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第39話「誓い」

王の呪術を封じてから三日が経った。

王都は静かだった。何かが変わったことに気づいている者は少ない。貴族院議長のカールハインツが王宮を訪れる回数が増えたこと、メルヴィス家の門が閉ざされたままであること。そのくらいだ。千年の呪いが終わったことを、この街はまだ知らない。

ブレンナー家の屋敷で朝食を済ませていると、グレゴールが来た。

「貴族院の一部が動いている。巫女王の末裔を王座に、という話だ」

パンを噛む手が止まった。

「冗談ですよね」

「わしが冗談を言う顔に見えるか」

見えない。この人は生まれてから一度も冗談を言ったことがなさそうだ。

「断ります」

即答だった。考える必要もなかった。

「理由を聞いてもよいか」

「私は巫女ではありません。ただの、人を治す者です。王になれば、この力で人を従わせる誘惑がいつか来ます。それは、呪王と同じです」

グレゴールが目を閉じた。深く、長く。

「よかろう。そう伝える」

立ち上がりかけて、グレゴールが足を止めた。

「お前の母親もそう言ったであろうな。力があっても使わぬ人間は、わしは好きだ」

それだけ言って、出ていった。王座の話は、それで終わった。

午後になって、ゼクスがいなくなった。

朝は庭で素振りをしていた。昼には屋敷にいた。それが午後になると、誰も姿を見ていない。

トビアスに聞いた。

「さあ。朝から何か落ち着かない感じだったけど」

老執事に聞いた。

「ゼクス様は、お昼過ぎに外出されました。行き先は仰らずに。ただ、普段は決してなさらないことを一つ」

「何ですか」

「鏡の前に立っておられました」

『……ねえイリス。これ、もしかして』

『黙って、玲子』

夕方になっても戻らない。窓から外を見た。もう日が傾いている。心臓が止まった人が、回復して間もないのに一人で出歩いて、何かあったらどうする。

玄関の扉が開いた。

ゼクスだった。外套に街の埃がついている。右手に何かを持っていた。背中に隠すようにして。無精髭が昨日より短い。剃ったのだ。剃り残しがあるけれど、この人なりに整えようとした痕跡がある。

「どこに行っていたんですか。心配したんですよ」

「……散歩だ」

嘘だ。この人は嘘をつく時、左の眉だけがわずかに上がる。前線で何度も見た。

「ゼクス様、顎に血が出てます。髭を剃ったんですか」

「……剃っていない」

左の眉が上がった。二回目。

「イリス。来い」

「え?」

「来い」

ゼクスが踵を返した。ついていく。廊下を抜けて、裏庭に出た。ブレンナー家の裏庭は、花壇ではなく練兵場だった。武門の家らしい。剣を振るための空間がある。今は使われていなくて、雑草が石畳の隙間から伸びている。

夕焼けが空を染めていた。

ゼクスが立ち止まった。背中を向けたまま、長い息を吐いた。肩が上がって、下がる。

「ゼクス様?」

「……様はやめろ」

「え?」

「もう、やめてくれ。お前に様づけされると、距離を置かれているようで──」

言葉が途切れた。耳が赤い。首の後ろまで赤い。

振り返った。

右手に持っていたのは、花だった。

青い花。名前はわからない。野に咲く、小さな花。茎が少し折れている。握りしめすぎたのだろう。花弁がひとつ取れかけている。

こんなに不器用な花を、見たことがない。

「俺は戦鬼だ」

声が低い。掠れている。

「壊すことしか知らなかった。人を守ると言いながら、守れなかった奴がたくさんいる。守れなかった奴の名前を、一人ずつ覚えておくことしかできなかった」

花を持つ手が震えている。

「だがお前が──お前が俺に、守ることを教えた。包帯を巻く手が、声の出ない口が、俺に人の守り方を教えた」

蒼い瞳が、まっすぐに私を見ていた。眉間の皺が深い。無精髭が伸びている。美しくはない。美しくはないけれど、目が逸らせない。

「この花をお前にやる。俺が選んだ。一番綺麗なのを選んだつもりだ。花屋で二時間迷った。店の女に笑われた。それでも──」

言葉が、また途切れた。

『二時間。花屋で二時間。この人、本当に……』

玲子が泣いている。心の中で。

「俺はお前の傍にいたい。一生。剣しか持てない手だが、お前の隣に立つことだけは──」

「はい」

ゼクスの言葉を遮った。

「え」

「はい、と言いました」

蒼い瞳が、凍った。

「……待て。まだ言い終わっていない」

「全部聞かなくてもわかります」

「わかるな。最後まで言わせろ。俺は──俺はこのために一日かけて──」

「じゃあ、言ってください」

ゼクスの喉が上下した。大きな手が、折れかけた花を差し出した。

「──嫁に来い」

それだけだった。

長い沈黙を、たった一言で終わらせた。飾りも前置きもない。戦場で命令を出す時と同じ声。でも、指先だけが震えている。

花を受け取った。茎が折れかけている。花弁が一枚取れている。でも青い色が、夕焼けの中で静かに光っていた。

「はい」

二度目の「はい」を、声にして言った。

ゼクスの手が伸びてきた。今度は途中で止まらなかった。頬に触れた。大きな掌が、頬を包んだ。硬くて、温かくて、少しだけ震えている。

「……泣くな」

「泣いてません」

泣いていた。でもゼクスも泣いていた。この人は泣く時に顔が変わらない。眉間の皺はそのまま、口は引き結んだまま。ただ蒼い瞳の縁から、一筋だけ光が落ちる。

引き寄せられた。今度はゆっくりと。額が胸に触れる。心臓の音が聞こえる。速い。すごく速い。戦鬼と呼ばれた男の心臓が、こんなに速く鳴っている。

大きな腕が背中に回った。壊れものを持つような力加減。この人はいつもそうだ。大剣を片手で振るう腕なのに、私に触れる時だけ、指先が震えるほど慎重になる。

夕焼けが二人を包んでいた。

裏庭の入口で、トビアスが壁に背をつけて立っていた。腕を組んで、空を見上げている。泣いている。なぜ泣いているのか、本人にもわからないだろう。血に刻まれた守護の本能が、守るべき人が幸せになったことを、感じ取っているのだと思った。

頭の上から、ゼクスの声が降ってくる。

「……花、気に入ったか」

「はい。一番好きな花です」

「名前も知らんのか」

「知りません。でも一番好きです」

蒼い瞳が、不器用に笑った。


第39話をお読みいただきありがとうございます。

王座の話を即答で断る場面から始めたのは、イリスが迷わないことを見せたかったからです。考える必要もなかった。ルーベン村で自分の声が無意識に人を動かすと知った時の怖さを、この人はまだ覚えている。「呪王と同じになる」という言葉が、単なる謙遜ではなく、自分の力への本気の警戒であることが伝わればと思いました。グレゴールが「よかろう」だけで引き下がったのも、最初からそう答えると思っていたからだと思っています。

ゼクスが午後にいなくなって、鏡の前に立っていたと聞いた場面。老執事の「普段は決してなさらないことを一つ」という台詞だけで全部言いたかった。このために鏡の描写一行しか書かなかったのは、説明しすぎると台無しになる気がしたからです。

花屋で二時間迷った、という事実を玲子越しに明かす形にしたのは、ゼクスの口からは絶対に言わないと思ったからです。でも読者には知っていてほしかった。

「嫁に来い」が最終的に彼の出した言葉です。飾りも前置きも、感動的な台詞もない。戦場で命令を出すのと同じ声で、指先だけが震えている。それがゼクスという人間の全部だと思っています。

イリスが「はい」を言った後に「まだ言い終わっていない」とゼクスが固まる場面は、書いていて一番楽しかった場面です。この人が一日かけて準備してきた言葉を全部聞かないまま「全部わかります」で終わらせるイリスと、「最後まで言わせろ」と食い下がるゼクスの、この二人らしいやりとりができたと思っています。

トビアスが入口の壁に背をつけて泣いている。本人にもなぜ泣いているかわからない。血に刻まれた守護の本能が、守るべき人の幸せを感じ取っている。最終話の前に、この場面で終われてよかったと思っています。

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