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千年の呪いで声が出ません。でも死んだ看護師が頭の中に転生してきたので、無言で命を救っていたら副騎士団長に溺愛されました。  作者: 花月 宙


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第38話「王の私室」

王宮の廊下は、足音を吸い込む絨毯が敷かれていた。

案内の侍従が先を行く。その後ろをグレゴールが歩き、私が続き、ゼクスとトビアスが両脇を固めている。その後ろには見届人として貴族院議長のカールハインツが続いている。

ゼクスの手が剣の柄にかかっている。トビアスの目が、左右の扉を一つずつ確認している。二人とも、戦場に入る時の顔をしていた。

『落ち着いて。呼吸が浅い』

玲子の声に従って、深く息を吸った。吐いた。

王の私室は、王宮の奥まった棟にあった。侍従が扉を開ける。グレゴールが敷居の前で足を止めた。

「わしらはこれから二人の王子をお連れする。行ってこい」

頷いた。ゼクスとトビアスと三人で、部屋に入った。

思っていたよりも小さな部屋だった。書斎だ。壁一面の本棚。机の上に羊皮紙の束。インク壺。鵞ペン。窓から差し込む午後の光が、埃の粒子を照らしている。

アルヴァン三世が、机の向こうに座っていた。

五十代前半。痩身。学者の手をしている。紫の瞳が、私たちを見た。深く思索にふけるような、知性と落ち着きを湛えた表情。

「お掛けなさい。椅子が足りませんが」

椅子は一つだけだった。私の前に。ゼクスとトビアスは立ったまま、壁際につく。

座らなかった。立ったまま、王の目を見た。

「お座りにならないのですか。お好きなように」

王が微笑んだ。穏やかで、品がある。この人が千年の呪いを維持してきた呪王の末裔だと、見た目からは想像がつかない。

「あなたに聞きたいことがあります」

「どうぞ」

「なぜ、ですか」

王の瞳が、わずかに細くなった。

「なぜ、とは。具体的にお願いできますか」

「なぜ千年も、私の一族の声を奪い続けたのですか」

沈黙が落ちた。机の上の鵞ペンが、窓からの風で微かに揺れる。

「奪い続けた? 私がしたのではないのですから実際のところはわかりません。想像で言うなら秩序のためだと思いますよ」

王の声には迷いがなかった。

「言霊の力は、人の心を直接動かすと聞いています。実際に私も経験しました。声ひとつで王も衛兵も動けなくなる。その力が野に放たれれば、国はあなたの思うがままです。言霊であなたの敵はすべて民の敵となる。これがどれだけ危険なことかはあなたが一番ご存知だ。私はあなたであなたは私だということですよ」

「だから声を奪った」

「祖先がね。私ではありません。血筋を絶ちたかったでしょうができなかった。私もです。あなたの母親は殺せましたが、あなたは生き延びてしまった」

「それは挑発ですか」

声が震えた。怒りではない。悲しみだ。

「あなたの祖先のせいで、私の母は声のない口で恋文を書きました。声のない口で子守歌を歌えなかった。声のない口で助けてと叫べないまま、あなたに殺されました」

王が初めて、目を伏せた。一瞬だけ。すぐに顔を上げる。

正直な人だと思った。嘘をつかないのではなく、嘘をつく必要がないと思っている人の正直さ。自分が正しいと信じているから、隠す理由がない。祖先のせいにしながら、母を殺したのは自分だと認める。矛盾しているのに、この人の中では矛盾していない。

「あなたは悪い王ではないのだと思います」

王の眉が動いた。予想していなかった言葉だったのだろう。

「この国は飢えていません。街道は整備されている。商人が自由に行き来できる。あなたの治世は、呪術がなくても成り立っている部分の方がずっと多い」

「……何が仰りたいのですか」

「あなたから呪術を取り上げます」

王の体が強張った。椅子の肘掛けを掴む指が白くなる。

「そして、そのまま王を続けてください」

紫の瞳が見開かれた。今度こそ、本当の驚きだった。

「……退位を求めないと?」

「あなたは言いましたね。私はあなたであなたは私だと。そうかもしれません。言霊で人を従わせれば、それは呪術で声を奪うのと同じです。だから私は、あなたを力で退けません。退けるのは、この国の人たちです。呪術なしでも民があなたに従うなら、あなたは王であるべきです。従わないなら、それはあなたの問題です」

王が立ち上がった。椅子が音を立てて後ろに下がる。ゼクスの手が剣の柄を握り込む。トビアスが一歩前に出る。

「待ってください」

二人を手で制した。

王は立ち上がっただけだった。攻撃の構えではない。ただ、座っていられなかったのだ。

「呪術を封じる。それが可能だと? 言霊で呪術を──」

「できます」

「トビアス、表の二人の王子を中にお連れしてください」

トビアスは、扉を開けて騎士団長に頷き、何事かと思っている王子を丁重に招き入れる。

「イリスと申します。お二方とは初めてお目にかかります。ご存じないかと思いますが王家と私の一族は千年以上前からお付き合いをさせていただいております。本日は、この国の民の安寧を祈って邪気を払わせていただきます。王の両脇にお並びください」

王子は突然言われたことに、反論しそうになったが何故か逆らえず。王の横に並んだ。

息を吸った。深く。足裏が床を掴む。

体の奥にある井戸の底。あの力がある場所まで、意識を沈める。水面が光っている。手を伸ばす。指先が触れる。冷たくて、熱い。

ルーベン村で知った。私の声は、意図しなくても人の心を動かす。なら、意図すれば、もっと深いところまで届く。呪術は力だ。力は封じられる。千年前に呪王がそれを証明した。私の先祖の声を封じることで。

同じことを、逆にやるだけだ。

「──封じます」

声に、力を乗せた。意図的に。村人に向けた時のような無自覚ではなく、明確な意思を持って。声が空気を変える。部屋の温度が下がる。本棚の本が微かに震える。

王と王子の体が硬直した。ルーゲンの時とは違う。あの時は体を止めただけだ。今は、もっと深い場所に手を伸ばしている。

王たちの中にある呪術の根。千年間受け継がれてきた、封じる力の源。それに触れた。冷たい。暗い。でも、掴める。

「二度と、誰の声も奪えないように」

光はなかった。派手な演出は何もなかった。ただ声が届いて、呪術の根が枯れた。それだけだった。

王の膝が折れた。

椅子に崩れ落ちるように座り込む。両手を見つめている。自分の中から何かが消えたことを、確かめるように。

「……消えた」

掠れた声だった。

「千年、受け継いできたものが。こんな──こんなあっさりと」

「あっさりではありません。千年かかりました」

王が顔を上げた。紫の瞳に、怒りはなかった。恐怖もなかった。あるのは困惑だった。自分がこれからどう生きていくのか、初めて考えている顔。

王子たちには何が起きたのかわかっていないようだった。

長い沈黙があった。

「……騎士団長にお伝えください。ゼクス・ブレンナーの離反は、私の命令による極秘任務だったと。公式記録はそのように訂正します」

呪術を失って最初にしたのが、政治的な後始末だった。この人はやはり、呪術がなくても王なのだ。

ゼクスが一歩前に出た。

「この娘の判断だ。俺は守るだけだ。──だが、もう一度この娘に手を出すなら、今度は俺が来る。俺を止められる呪術は、もうないぞ」

王がゼクスを見た。それからトビアスを見た。それから私を見た。

「あなたは不思議な人だ。力を持ちながら、力で人を屈服させない。──私にはできなかったことです」

「私にもわかりません。でも、母がそうしたと思うので」

扉に手をかけた。

振り返って、最後に一言

「民のための政治をお願いします」

廊下に出ると、グレゴールとカールハインツが待っていた。グレゴールは私の顔を見て、何も聞かずに頷いた。カールハインツは扉の向こうを一度だけ覗き込んで、何かを確かめるように目を閉じた。


第38話をお読みいただきありがとうございます。

「あなたは悪い王ではないのだと思います」という言葉を、イリスに言わせるかどうか、最後まで迷いました。

でも、これがイリスという人間だと思いました。怒りを持っている。母のことは許していない。それでも、目の前の人間をきちんと見て、見えているものを言葉にする。王の治世が実際に民を豊かにしている部分を認めた上で「だから呪術を取り上げます」と言う。力で倒すのではなく、その力の根を静かに枯らす。

「封じます」の一言を、派手に書かなかったのは、言霊とはそういうものだと思ったからです。光もなく、轟音もなく、ただ声が届いて、千年の力が消えた。

呪術を失って真っ先に政治的後始末を始める王に対して、ゼクスが最後に言う「俺を止められる呪術は、もうないぞ」は、この人なりの、イリスへの誓いでもあると思って書きました。

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