第37話「王都へ」
馬で三日の道のりだった。
初日は山道を下った。木漏れ日の中を四頭の馬が連なって歩く。グレゴールが先頭、トビアスが殿。ゼクスと私が並んで真ん中を行く。
ゼクスが、ずっとこちらを見ていた。
見ていないふりをしているつもりなのだろう。前を向いて、手綱を握って、時折咳払いをして。でも視線が外れない。私が何か言うたびに、蒼い瞳がこちらに向く。
「ゼクス様、前を見てください。木にぶつかります」
「……ぶつからん」
ぶつかりかけた。枝が額を掠めて、無精髭の頬に小さな葉っぱがひとつ貼りついた。本人は気づいていない。
「葉っぱ、ついてます」
「どこだ」
「右の頬です」
左の頬を擦る。
「右です」
今度は顎を擦る。
「……もう、取りますから」
馬を寄せて、手を伸ばした。指先がゼクスの頬に触れる。無精髭の感触。硬くて、少しだけ温かい。葉っぱをつまんで取る。それだけのことなのに、指を離すのに一拍かかった。
ゼクスの耳が赤い。
この人は顔には出ない。眉間の皺はいつも通りだし、口元は引き結ばれている。でも耳だけが正直で、付け根から先まで、はっきりと赤くなっている。
前を向いたまま、ゼクスが言った。
「……お前の声は」
「はい?」
「慣れん」
怒っているのではない。この人の語彙の少なさは知っている。「慣れない」は、たぶん「ずっと聞いていたい」の不器用な翻訳なのだと思う。思いたい。
『耳。真っ赤。記録更新じゃない?』
『玲子、黙って』
二日目。街道に出た。
宿場町の安宿で一泊した。部屋は二つしか取れなくて、グレゴールとトビアスが一部屋、ゼクスと私が一部屋になりかけた。
「俺は馬小屋で寝る」
ゼクスが即答した。顔色ひとつ変えずに。でも耳は赤い。
「馬小屋は駄目です。まだ体が本調子じゃないのに」
「本調子だ」
「脈を取らせてください」
「……触るな」
触るな、と言った直後に、自分の言葉に固まっている。違う、そういう意味ではない、という顔。でも訂正の言葉が出てこない。この人は、こういう時に黙る。
結局、グレゴールが気を利かせた。
「わしとゼクスで一部屋、娘とトビアスで一部屋だ。異論は認めん」
トビアスが「え、俺?」という顔をしたが、グレゴールに睨まれて黙った。
夜、薄い壁の向こうからゼクスの寝息が聞こえた。規則正しい。元気な人の呼吸だ。安心して、目を閉じた。
『ねえイリス。壁に耳つけて寝息聞いてるの、結構やばいよ』
『聞いてない。聞こえるだけ』
『同じだよ』
三日目。王都が近づいていた。
街道の交通量が増える。商人の荷馬車、旅人の群れ、巡回の兵。ゼクスがフードを深くかぶった。副騎士団長の顔が知れている。
昼の休憩で川辺に馬を止めた。グレゴールとトビアスが水を汲みに行っている間、ゼクスと二人きりになった。
川面に光が跳ねている。風が水色の髪を揺らす。
「イリス」
名前を呼ばれた。この人が名前で呼ぶのは、本当に稀だ。普段は「お前」しか言わない。
「はい」
「王都に着いたら、俺から離れるな」
「はい」
「何があっても」
「はい」
沈黙が落ちた。ゼクスが何か言いたそうに口を開けて、閉じる。開けて、閉じる。
「……それだけだ」
それだけではないことくらい、わかる。でもこの人はそれ以上の言葉を持っていない。持っていないのではなく、出し方を知らない。
「ゼクス様」
「なんだ」
「私も、あなたから離れません」
蒼い瞳が揺れた。
手が伸びてきた。私の手に触れようとして、途中で止まる。指先と指先の間に、ほんの僅かな隙間。空気の温度が違う。あと少し。あと少しで届く。
ゼクスの指が震えた。そして拳を握って、膝に戻した。
この人は、いつもそうだ。戦場では迷わないのに、こういう時だけ立ち止まる。大剣を片手で振るう腕が、私の手を取ることすらできない。
その不器用さが、たまらなく愛おしかった。
『今の、惜しかったね。あと三センチだったよ』
『玲子、本当に黙って』
『無理。こんな面白いもの見て黙ってられない』
川面を風が渡っていった。水色の髪が揺れて、ゼクスの肩に一筋かかった。ゼクスが指先でそっとつまんで、戻した。触れたのは髪だけ。肌には触れない。触れようとしない。
「……風が出てきた。行くぞ」
ゼクスが立ち上がった。差し出された手は、馬に乗るための手だった。それを取る。掌が大きくて、硬くて、温かい。馬に跨るまでの数秒間、離さなかった。離したのは、ゼクスの方だった。
王都の城壁が見えた時、日はもう傾いていた。
西日に照らされた白い城壁。その向こうに王宮の尖塔が突き出ている。あの中にアルヴァン三世がいる。
ブレンナー家の屋敷は、貴族街の外れにあった。武門の家らしい質素な造り。華美な装飾はない。石造りの門に、剣を交差させた家紋が刻まれている。
門を叩いたのはグレゴールだった。
出てきた老執事が、ゼクスの顔を見て絶句した。
「ゼクス様……生きて……」
「ああ。世話になる」
それだけ言って入っていく。老執事の目から涙がこぼれているのを、ゼクスは見ていない。
屋敷の中は静かだった。長兄は領地、次兄は王都の官庁に勤めているらしく、使用人が数名いるだけ。客間に通された。
グレゴールが暖炉の前で外套を脱いだ。
「明日、王宮に使いを出す。わしの名で、ゼクスの帰還と謁見の申し出を。騎士団長の権限でな」
「王が受けるか」
「受けざるを得ん。ゼクスの帰還を拒めば、離反の理由を公にせねばならなくなる。王にとってはそちらの方が都合が悪い」
ゼクスが頷いた。
「条件がある」グレゴールが私を見た。「謁見はイリスが主役だ。お前たちは護衛として同席する。王と話すのは、この娘だ」
ゼクスが眉間に皺を寄せた。反論しかけて、やめた。
「……わかった」
夜、客間の窓から王宮の灯りが見えた。
明日、あの中に入る。千年の呪いをかけ続けた王と、向き合う。
『怖い?』
玲子の声。
『怖い。でも、やる』
『うん。知ってた』
窓の外で、星が出ていた。ルーベン村で見た星と同じ星だ。でも、ここから見ると、少し遠い。
ゼクスの部屋は、廊下を挟んだ向かいだった。扉が薄く開いている。
覗く勇気はなかった。でも、あの規則正しい呼吸の音が、微かに聞こえた。
大丈夫。明日も、この音が聞こえる。
それだけで、眠れた。
第37話をお読みいただきありがとうございます。
この話は、ほとんど戦いのない話です。意図的に、そうしました。
王宮に向かう前の三日間、ゼクスとイリスにただの旅をさせたかった。葉っぱを取る場面、宿屋で即座に馬小屋を宣言する場面、川辺で手が届かなかった場面。声が出ないまま積み重なってきた二人の関係が、声を取り戻したことでどう変わって、でも本質的には何も変わっていないか、それを書く時間でした。
「慣れん」がたぶん「ずっと聞いていたい」の翻訳だと思いたい、というイリスの内側が、書いていて一番楽しかったところです。
謁見の作戦を練る場面で、グレゴールが「王と話すのはこの娘だ」と言い切る。ゼクスが反論しかけてやめる。この人がイリスに主役を渡せるようになったことも、第1部からの変化です。




