第36話「ルーベン村」
老婆の名前は、マルタと言った。
母と同じ村で育った幼馴染だという。声が出ないルーシャの代わりに、いつも隣で喋っていたのだと笑った。笑い皺の奥に、涙が光っていた。
「綺麗な子だったよ。水色の髪はあんたそっくり。いや、あんたがルーシャそっくりなんだね」
囲炉裏の前で、マルタは語った。イリスとトビアスが向かい合って座り、ゼクスは壁にもたれて目を閉じている。聞いていないようで、全部聞いている。グレゴールは外で兵士たちと火を囲んでいた。
「声が出ないことを、ルーシャは一度も悲しんだことがなかったよ。少なくとも、あたしの前では。筆談で笑って、筆談で怒って、筆談であんたの父親に恋文を書いてね」
胸が詰まった。母の恋文。声の出ない女が、紙の上だけで愛を伝えていた。
「追手が来た夜のことは、忘れられないよ」
マルタの声が低くなった。
「王の兵が来た。村を囲んで、ルーシャを出せと。あたしたちは何も知らなかった。なぜ兵隊がルーシャを探しているのか。でも一人の男が走り込んできてね──」
トビアスが身を乗り出した。
「背の高い、茶髪の男。目がね、あんたにそっくりだった」
トビアスの喉が鳴った。
「その男がルーシャとあんたを連れて逃げた。追手を引きつけるために、自分が囮になって山の反対側に走っていった。それきり、戻ってこなかった」
「……俺の、父親ですか」
「名前は聞かなかった。でも、あんたの目を見ればわかるよ。あの男の息子だ」
トビアスが拳を膝に押し当てた。震えている。こらえている。この子がずっと抱えていた「なぜ自分はイリスを放っておけないのか」という問いの、答えの一端がここにあった。
「ルーシャは逃げる途中で殺された。あんたはその男が農家の前に置いて──」
「もう、いいです」
自分の声で遮った。これ以上聞いたら、立てなくなる。
マルタが頷いた。それ以上は語らなかった。
翌朝、ゼクスの容態を診た。脈を取り、瞳孔を確認し、胸の音を聞く。規則正しい。後遺症の兆候はない。
「……もう寝てなくていいですか」
「駄目だ。あと一日は横になっていてください」
「お前に敬語で命令されると、妙に逆らえん」
蒼い瞳がかすかに笑っている。頬が熱くなるのを感じて、慌てて目を逸らした。
その日の昼過ぎだった。
マルタが慌てた顔で飛び込んできた。
「まずいよ。村の連中が来る。止めたんだけど──」
入口に、十人ほどの村人が立っていた。先頭に立つ痩せた男が、代表らしかった。両手を揉みしだしながら、それでも声は硬い。
「あんたたちに出ていってもらいたい」
マルタが割って入ろうとする。イリスはその肩にそっと触れて、前に出た。
「やっとここまで復興した村だ。百年前の粛清のあと、生き残りがここに集まって、目立たないように、声を上げないように、ずっとそうやって暮らしてきた。あんたたちがいると兵が来る。また全部なくなる」
男の声は震えていた。怒りではない。恐怖だ。百年間、ずっと怯えて暮らしてきた人たちの恐怖。
「わかります」
イリスは頭を下げた。
「あと二日だけ、いさせてください。仲間が回復したら、すぐに発ちます。ご迷惑はおかけしません」
男の顔が変わった。
さっきまで強張っていた表情が、ふっと緩んだ。後ろの村人たちも同じだった。頷く者。目を伏せる者。肩の力が抜けていく。誰一人、反論しなかった。
「……ああ、そうかい。二日だね。わかった」
男は穏やかに言って、村人たちを連れて帰っていった。
マルタが目を丸くしている。トビアスも。
イリスだけが、背中に冷たい汗をかいていた。
『ねえ、イリス。今の、気づいた?』
玲子の声が、静かだった。
『あなた、何もしてないよ。ただお願いしただけ。でもあの人たち、一瞬で全員が同じ方を向いた。怒ってた人も、怖がってた人も。あなたの声を聞いた瞬間に』
気づいていた。気づいていたから、怖い。
あれは説得ではなかった。言葉の中身で納得させたのではない。声そのものが、人の心を動かしている。言霊だ。意識していないのに、声に乗っている。
『これが、あなたの力ね』
千年前、巫女王はこの力で国を導いた。声ひとつで民の心を束ねた。それがどれほど強い力か、今わかった。わかってしまった。
この力を意図的に使えば、誰でも従わせることができる。
王が恐れた理由が、わかった。
『……怖い、玲子』
『うん。怖くていいと思う。怖がれる人じゃないと、この力は持っちゃいけない』
夜。グレゴールが囲炉裏の前で語った。
「王都の情勢を伝える。王は体調不良で帰還したと公表しているが、不自然さは隠しきれていない」
ゼクスが壁にもたれたまま聞いている。まだ体は万全ではないが、目は鋭い。
「ルーゲン奪還の最大の功労者であるお前が突然離反し、同じ時期に王が講和を途中で放り出して帰った。貴族たちは理由を知りたがっている。王への不信感が広がり始めている」
「……戦後処理は」
「ヴォルフが講和をまとめた。あの男は有能だ。ルーゲンの帰属と鉱山の管理は共同統治で決着した。戦争は終わる」
「それは、いい」
ゼクスの声に力が戻り始めていた。
「問題はお前たちだ」グレゴールが私を見た。「ここは因縁の地だ。巫女の末裔がルーベンに潜んでいると、遅かれ早かれ王の耳に入る。このまま逃げれば、反逆者の汚名を着せられて一生逃げ続けることになる」
「王都に戻れと」
「戻るべきだ。正面から」
沈黙が落ちた。囲炉裏の火が爆ぜる音だけが響く。
「戻ります」
自分の声が、思ったより静かに出た。
「逃げたら、母と同じです。追われて、隠れて、最後は殺される。それは、嫌です」
ゼクスが壁から背を起こした。
「俺もだ」
トビアスが立ち上がった。
「俺も行く」
グレゴールが、初めて笑った。皺だらけの顔に、深い笑みが刻まれた。
「よかろう」
*
二日後の朝、村を発った。
マルタが井戸端まで見送りに出てきた。皺だらけの手で、私の手を握った。
「ルーシャは最後まで声が出なかった。でもあの子はいつも笑ってたよ。あんたの声を聞いたら、きっと泣いて喜ぶ」
「ありがとうございます。マルタさん」
声で礼を言うと、老婆は口元を押さえて、目を赤くした。
馬に跨がる。東の山道を今度は逆に、西へ向かって下る。朝日が背中にあたる。
ゼクスが隣に並んだ。トビアスがその後ろにつく。グレゴールが先頭を行く。
王都へ。正面から。
第36話をお読みいただきありがとうございます。
マルタが語る母の話を、イリスが自分から遮る場面を書いたのは、「全部聞かなくていい」という選択をイリスにさせたかったからです。知りたいけれど、今はまだ立てなくなる。それを自分で判断できるようになったことが、第1部からの変化だと思っています。
トビアスの父親の話は、短くしか書きませんでした。ただ「目がそっくり」で、「それきり戻ってこなかった」だけ。それ以上はいらないと思いました。
村人を前に声でお願いしただけで、全員が同じ方向を向いた。その場面を書いた後、イリスが「怖い」と思う。自分の力の正体を知ったその怖さが、この話のもう一つの核心でした。王が千年間恐れた理由が、体感としてわかってしまった。
「怖くていいと思う。怖がれる人じゃないと、この力は持っちゃいけない」という玲子の言葉は、この物語全体を通じて私が一番伝えたかったことの一つです。




