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千年の呪いで声が出ません。でも死んだ看護師が頭の中に転生してきたので、無言で命を救っていたら副騎士団長に溺愛されました。  作者: 花月 宙


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第35話「はじめての声」

鳥の声で目が覚めた。

知らない天井だった。低い梁。土壁。干した薬草が束になって吊るされている。窓から差し込む光は柔らかくて、戦場の朝とは違う色をしていた。

体が重い。腕も、足も、まるで砂袋を括りつけられたように動かない。覚醒の反動だ、と頭のどこかでわかった。

『おはよう。丸一日寝てたよ』

玲子の声が聞こえて、安堵が込み上げた。まだいてくれた。

『……ゼクス様は』

『隣の部屋。息はしてる。心臓も動いてる。トビアスがずっと見てる』

目を閉じた。息を吐いた。生きている。あの人は、生きている。

しばらくそのまま天井を見ていた。干した薬草の匂いが鼻の奥にしみる。体の中を探った。あの光は──言霊は──。

ある。

奥の奥に、まだある。でも昨夜のように溢れてはこない。深い井戸の底に水が光っているような、手が届くのか届かないのかわからない距離。あれを自分の意思で呼び出せるのか、呼び出したらまた制御できなくなるのか、わからない。

『まだあるね。でも、昨日とは違う感じ』

玲子の声に、安堵とも警戒ともつかない色があった。

『……うん。触るのが、怖い』

怖かった。あの力が溢れた時、自分が自分でなくなるような感覚があった。千年分の声が一度に喉を通っていく、あの圧。もう一度あれが起きたら、今度は体が保つかわからない。

でも、声は出る。

試しに、口を開いた。

「……あ」

音が出た。普通の声。細くて、頼りなくて、部屋の壁にぶつかって消えるような小さな声。言霊でも何でもない。ただの、声。

十七年間、一度も出せなかった声。

「あ、あ……」

喉が震える。音程が揺れる。赤ん坊が初めて声を出すみたいに、不安定で、不格好で。でも、声だ。私の声だ。

「い、り……す」

自分の名前を言ってみた。三つの音を出すだけなのに、喉の筋肉がどう動いていいかわからなくて、つっかえる。もう一度。

「イリス」

言えた。

涙が出た。

仰向けのまま、涙が耳のほうに流れていく。止まらない。声を出しながら泣くという行為が、生まれて初めてで、自分の嗚咽の音にまた驚いて、また泣く。

『泣きながら声出してる。忙しいね、あんた』

玲子が笑っている。泣きながら笑っている。私たちの間に壁がなくなっている。心の中がぐちゃぐちゃに温かい。

扉が開いた。

老婆だった。昨夜、井戸端に立っていた人。皺だらけの手に、木の椀を持っている。

「起きたかい。──泣いてるのかい」

「ごめんなさい、あの、」

声が出たことに、老婆の目が丸くなった。椀を持つ手が止まる。

「……声が出るのかい。ルーシャは、最後まで出なかった」

胸が詰まった。母は、声が出ないまま死んだのだ。

「ルーシャの分まで、たくさんしゃべりな」

それだけ言って、老婆は椀を置いて出ていった。敷居をまたぐ時、一度だけ振り返って、私の水色の髪を見た。何か言いたそうに口が動いて、やめた。今はいい、という顔だった。

薬草を煮たらしい、苦い匂いの汁。一口飲むと、体の芯がじわりと温まった。

立てるか試した。壁に手をついて、膝が笑う。それでも足は動く。隣の部屋は、三歩で着いた。

扉を開ける。

ゼクスが寝ていた。毛布の上に横たわって、目を閉じている。鎧は外されて、肌着だけの姿。胸が上下している。規則正しく。生きている呼吸。

傍らでトビアスが壁にもたれて座っていた。首の赤い線に布が巻いてある。私に気づいて、口を開きかけて、やめた。代わりに立ち上がって、黙って部屋を出ていった。

二人きりになった。

ゼクスの枕元に膝をつく。顔色はまだ白いけれど、昨夜の青さはない。眉間の皺が、眠っていても刻まれている。無精髭が一日分伸びている。

手を伸ばした。額に触れようとして、指が震える。

「……ゼクス様」

声で、名前を呼んだ。

生まれて初めて。

蒼い瞳が、開いた。

焦点が合うまでに、少しかかった。天井を見て、壁を見て、それから私を見た。

「……お前、今」

起き上がろうとする。体が言うことを聞かないのか、肘が折れて倒れ込む。

「動かないでください。まだ心臓が止まってたんですから」

「お前──声が」

「はい。出るようになりました」

ゼクスの蒼い瞳が、私の口元を見ている。あの頃と同じだ。包帯を替えるたびに、声のない私の唇をじっと見ていた、あの目。

頬が熱い。耳まで熱い。

「あの、ゼクス様」

「……なんだ」

「ずっと、言いたかったことがあります」

膝の上で拳を握った。この言葉を、声にして届けたかった。包帯を巻き終えるたびに、声の出ない口で呟いていた、あの五文字を。

「お・だ・い・じ・に」

ゼクスの目が、見開かれた。

蒼い瞳が、揺れた。

「──それか」

掠れた声が、震えていた。

「お前がいつも、言っていたのは」

唇の動きだけで、毎日毎日、同じ言葉を繰り返していたのを、この人は見ていた。読めなくても、わかなくても、ずっと目を離さずに見ていた。

「はい」

「もう一度」

「お大事に」

ゼクスの手が伸びてきた。大きな手。荒れた指。不器用に、私の頬に触れた。涙を拭おうとしたのだと思う。でも指が震えていて、うまく拭えなくて、結局そのまま頬を包んだ。

「……もう一度」

「お大事に」

三度目を言い終える前に、引き寄せられていた。

ゼクスの胸は、あの日と同じように熱かった。鎧がない分、心臓の音が直接聞こえる。少し速い。不整脈とかではなくて──たぶん、そういうことなのだと思った。

「聞こえた」

ゼクスの声が、頭の上から降ってくる。

「やっと──聞こえた」

泣いていた。この人が。戦鬼と呼ばれたこの人が。声を殺して、私の髪に顔を埋めて、泣いていた。

私も泣いた。声を出して泣いた。生まれて初めて、声を出して、誰かの腕の中で泣いた。

どれくらいそうしていたのかわからない。

泣き止んだ後も、離れられなかった。ゼクスの心臓の音を聞いていた。昨日止まっていた心臓が、今は私の耳のすぐ下で、ちゃんと動いている。それだけで、もう何もいらないと思った。

扉の向こうで、足音がした。

トビアスの声。それから、もうひとつ。低くて、重い声。聞き覚えがある。

「──グレゴール殿」

扉が開いた。旅装のグレゴールが立っていた。土埃にまみれた外套。馬を飛ばしてきたのだとわかる。

老婆が後ろから顔を覗かせて、小さく頷いた。この人がここを知っているのは、不思議ではなかった。古い伝承に詳しい人だから。

グレゴールの目が、私を見た。声を出す私を見て、一瞬だけ、目を閉じた。

「間に合ったか」

それから、ゼクスに向き直った。

「王は、体調不良を理由に講和をヴォルフに任せて王都に帰った。──我々も戻るぞ」


第35話をお読みいただきありがとうございます。

「おだいじに」を声にする場面のために、この話を書いてきたと言っても過言ではありません。

イリスが毎回包帯を巻き終えた後、声の出ない口で繰り返していた五文字。ゼクスはずっとその口元を見ていた。音として届かなくても、目を離さずに見ていた。その積み重ねが、「それか」の三文字に詰まっています。

「もう一度」と三度繰り返させたのは、ゼクスが自分で確かめたかったのだと思っています。夢じゃないか、また聞き違いじゃないかと。あの不器用な人がそうする姿は、書いていて一番愛着が湧きました。

「ルーシャの分まで、たくさんしゃべりな」と言ってすぐ部屋を出ていく老婆の書き方は、多くを語らないことを選びました。泣きながら声を出す、という初めての行為を、イリスにひとりで味わわせたかったからです。

引き続きよろしくお願いします。

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