第34話「動くな」
口を開いた。
声は、出なかった。
千年の壁が軋んでいる。亀裂が走っている。でも、まだ砕けていない。喉の奥で何かが震えて、そこから先に出てこない。
目の前で、王が動いた。
アルヴァン三世が、壁際に転がっていた衛兵の胸に指を触れる。ゼクスが気絶させた三人。その体が、糸で吊られたように起き上がった。
瞳の色がない。灰色に濁っている。
「お邪魔な方から、先に片付けましょう」
衛兵たちがトビアスに向かって動き出した。三人同時に。剣を引き抜く動作が、寸分の狂いなく揃っている。生きている人間の動きではない。
トビアスが一人を弾いた。掌に白い光が閃いて、刃が折れる。でも二人目が背後に回り込む。三人目がトビアスの足を払う。
倒れた。
首に刃が当てられる。トビアスが叫ぶ。声にならない叫び。白い光がもう一度明滅するが、弱い。限界だ。
「──動くな」
出た。
声が、出た。
自分の喉から出た音が、空気を震わせるのを感じた。低い。深い。自分の声なのに、自分だけの声ではない。もっと古い、もっと太い何かが、喉を通っていく。部屋の空気が一瞬で変わった。
三人の衛兵が止まった。トビアスの首に当てられた刃が、そのまま凍りつく。
王の足が、床に貼りついた。
紫の瞳が大きく見開かれる。口が動くが、声が出ない。言霊の下では、呪王の末裔も、動けない。
「……」
足裏が石床を掴む。呼吸が深くなる。
ゼクスの元へ膝をついた。
『胸当てを外して。紐は左脇の下。急いで』
玲子の声に従って、鎧の紐をほどく。指が震える。鋼の胸当てを引き剥がすと、汗で濡れた麻の肌着が出てきた。
『胸骨圧迫を行いましょう。両手を重ねて、胸の真ん中、五センチ地面に向かって垂直に沈める。止めないで。テンポは私が取る。──今』
両手を重ねる。肘を伸ばして、体重を乗せる。
押す。押す。押す。
『遅い。もっと早く。一、二、三、四──そう、そのテンポ』
押す。押す。押す。
背中に汗が流れる。腕が熱い。二十回を過ぎた頃から肩が軋み始めた。ゼクスの体は大きい。五センチ沈めるのに、全体重がいる。三十回。五十回。ゼクスの顔は白い。唇は青い。何も変わらない。腕がちぎれそうだ。
トビアスはいつ王が動き出しても対応できるように短剣を向けて身構えている。
『そのまま続けて、ゼクスを救うために』
続ける。この手は、人を治すための手だ。
七十回を過ぎた頃、指先に温度が生まれた。
光だ。
掌から、淡い青白い光が漏れている。最初は微かだった。でも押すたびに強くなる。ゼクスの胸にも同じ光が広がっていく。胸当てを外した胸元から、肌を透かして、光の筋が心臓の位置に集まっていく。
百回。
『止めないで、イリス。届いてる。もう少し』
光が脈打った。ゼクスの胸の中で、冷たい蓋のようなものが砕ける感触があった。呪術が──退いた。手のひらの下で、何かが、跳ねた。
「──ゴッ、ホ」
ゼクスが咳き込んだ。
体が大きく跳ねて、目が開く。蒼い瞳に焦点がない。でも胸が動いている。上下している。息を吸って、吐いている。生きている。
「ゼクス様、ゼクス様」
声が出ている。自分の声が。
「……お、まえ」
掠れた声。蒼い瞳が私の顔を見つけた。何かを言いかけて、咳に遮られる。
「しゃべらないでください。息だけしてください」
涙が落ちた。ゼクスの胸の上に、ぽたりと。拭く暇がない。
廊下の向こうから足音が響いた。
鎧の音。複数。駆けてくる。
ゼクス派の兵士たちだった。五人。武装している。先頭の男が扉口で立ち止まり、床に倒れたゼクスと、その横で泣いている私と、石のように固まった衛兵たちを見渡して、一瞬だけ言葉を失った。
「副団長──!」
「扉を外して。担架にします。早く」
自分の声が、こんなにはっきり出ることに、まだ慣れない。でも兵士たちは迷わなかった。蝶番に剣を差し込み、木の扉をこじ開ける。ゼクスを扉の上に寝かせ、四人で持ち上げる。
回廊を走った。
言霊の効果は、もう薄れ始めていた。背後で空気が緩む。石のように固まっていた門兵たちが、一人、また一人と、身じろぎを始めている。
『長く持たない。城壁を出るまでに解ける』
わかっている。
「走って。止まらないで」
兵士たちが応える。扉の上でゼクスが呻く。城壁の門を抜けた時、完全に解けたのがわかった。遠くで怒号が上がる。
馬が三頭、門の外に繋がれていた。偵察用の軽装馬。扉ごとゼクスを馬の背に括りつけるのは無理だ。
「俺が背負う」兵士の一人が名乗り出た。
「ゼクスの馬は俺が引く」トビアスが手綱を掴む。いつの間にか追いついていた。首に赤い線が走っている。刃を当てられた痕だ。血が出ているのに、本人は気にしていない。
「どこへ行く」
トビアスが聞いた。
東。東の山道。なぜわかるのか自分でもわからない。でも体が知っている。この足が覚えている。母に抱かれて通った道を、血が覚えている。
「東です。山に入ります」
夜明け前の街道を走った。蹄が石畳を叩く音だけが暗闇に響く。ルーゲンの城壁が背中で小さくなる。山道に入ると、木々が頭上を覆って星が消えた。馬の息が白い。冷たい風が汗を乾かしていく。振り返っても追手の松明は見えない。呪術を組み直すのに時間がかかっているのだろう。
どれくらい走ったのかわからない。覚醒の反動が来ていた。指先の感覚がない。視界の端が暗い。馬の背にしがみつくだけで精一杯になっていく。声はまだ出る。でもいつまで出るのかわからない。喉の奥が、じわじわと締まっていく感じがする。
山間に灯りが見えた時、馬の足が自然と緩んだ。
崖の内側に張り付くような小さな集落だった。石積みの家が五つ、六つ。井戸端に苔が生えている。薪を積んだ庇。見たことがないのに、懐かしい。胸の奥が痛いほど、懐かしい。
集落の入口に、老婆が一人立っていた。水汲みの桶を足元に下ろしたまま、こちらを見ている。
水色の髪を見た。
紅い瞳を見た。
老婆の手が、口元を押さえた。
「……ルーシャの、娘かい」
膝が、折れた。
第34話をお読みいただきありがとうございます。
「動くな」の二文字を、この話のタイトルにしました。
最初に口を開いた時、声は出なかった。千年の壁は、意志だけでは砕けなかった。砕けたのは、ゼクスの心臓が止まっていて、トビアスの首に刃が当てられていて、もう「声を出そう」と考える余裕すらなくなった瞬間でした。
心肺蘇生の場面は、玲子が「看護師である」ことの意味として書きたかった場面です。指揮室でも天幕でも、玲子の知識はイリスを通してずっと人を助けてきた。その集大成が、他でもないゼクスの心臓を動かすことになる。百回の胸骨圧迫を数えながら書いていて、腕が痛くなる気がしました。
「ゼクスの胸に掌から光が漏れて心臓に集まっていく」という描写は、医学と言霊が重なる場所として書いています。どちらが先でどちらが従なのかは、わざと曖昧にしました。




