第33話「戦鬼、来たる」
扉の外で足音が止まり、鍵が回る音がした。
金属が擦れる硬い音。それから、錠が外れる重い音。
扉が開いた。
暗闇に慣れた目に、松明の橙色が差し込んだ。
トビアスだった。
息を切らしている。手に短剣。頬に擦り傷。だが目が澄んでいた。地下通路の暗がりの中で、あの目だけが光っている。
「迎えに来た」
その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かが震えた。封印でも呪いでもない。もっと古い、温かいもの。
トビアスが私の手を取った。
「走れるか」
頷いた。
通路に出た。石の壁。松明の残り火。足元の石畳が湿っている。
トビアスは迷わなかった。分岐点で立ち止まることもなく、右に折れ、まっすぐ進み、下り階段を駆け降りる。足が道を知っている。頭ではなく、体が覚えている道。
角を曲がった先に、護衛が一人立っていた。一人だけだった。この広さの地下に、一人しかいない。上で何かが起きている。護衛が引き剥がされている。グレゴールが作ってくれた隙だ。
トビアスは声を出さなかった。短剣を低く構え、三歩で距離を詰めた。護衛が剣を抜きかけた時にはもう懐に入っていた。柄で腹を打ち、崩れたところを壁に押さえつけ、首の横を掌底で打った。護衛が崩れ落ちる。
通路が広くなった。天井が高くなる。旧領主が作った貯蔵庫の中央部に近づいている。
足元に、人が倒れていた。
護衛だった。三人。気を失っている。短剣で打ち据えられた跡がある。殺されてはいない。
ゼクスがここを通った痕跡だった。先に入っている。
その先から、声が聞こえた。
穏やかな声。
「副騎士団長。君には失望したよ。この国に尽くしてきた君と君の一族が、王に刃を向けるとはね」
足音を殺して、角から覗いた。
広い空間だった。石の柱が四本。壁の松明が空間を照らしている。
ゼクスが立っていた。短剣を手に。鎧の上から返り血が付いている。
その向かいに、王が立っていた。アルヴァン三世。質素な外套のまま。護衛は連れていない。白い手を体の横に下げたまま、微笑んでいた。
「この娘を連れ出すだけだ。王には手を出さん」
ゼクスの声は低く、静かだった。
「そうかね。だが君は王命に背いた。それだけで十分だよ」
ゼクスが動いた。短剣を鞘に収めた。革手袋をはめた両手を前に出し、王の細い体に近づいた。掴みかかろうとしている。私が逃げる道を空けるために。武器は使わない。グレゴールとの約束を守っているのだろう。それだけではない。王を傷つければ、私を連れ出す大義が消える。この人は、怒りの中でもそこまで考えている。
だが、手が止まった。
一瞬だった。ほんの一瞬。革手袋の指先が、王の外套に触れる直前で止まった。
つい先日まで忠誠を誓っていた相手だ。この身を盾にすることが生涯の務めだと信じていた王だ。その体に手をかけることへの躊躇が、戦鬼の動きにわずかな隙を作った。
すかさず王の右手が上がった。白い、学者の手。
指先に、紫の光が灯った。
一瞬だった。
紫の光がゼクスの胸を打った。音はなかった。閃光もなかった。
両手を前に出した姿勢のまま、ゼクスの体が凍りついた。目が見開かれている。何か叫ぼうとしているのだろう。だが、声が出ない。
防御する余裕すらなかった。
とどめを刺すように、再び紫の光が放たれた。
二度目は、膝をつくことすらできなかった。一本の丸太が倒れるように、顔面から石の床に叩きつけられた。
鈍い音が空間に響いた。
動かない。
「呪術とは封じる力だ。声を封じるのも、体を封じるのも、本質は同じだよ。体の中の流れを止めれば、人は動けなくなる」
王は、倒れたゼクスを穏やかに見下ろしていた。
そこへ、トビアスが弾かれたように飛び出す。
迫る殺気に、王はそれまでの優雅な振る舞いからは想像もつかない俊敏さで距離を取る。
トビアスは倒れたゼクスの前に立ちはだかり、短剣を構える。
王が指を向けた。紫の光が、容赦なくトビアスを襲う。
光がトビアスの体に触れた瞬間、弾かれた。
トビアスの全身が淡い白光を帯びていた。本人が一番驚いている。自分の手を見ている。何が起きたのかわかっていない。
王の紫の瞳が、白光に包まれたトビアスを凝視した。
「ほう。呪術を逸らすか。ということは貴様、守護の血族か。まだ生き残りがいたとはね」
二度目の光。三度目。トビアスの体が押され、後退する。白光が揺らぐ。歯を食いしばって耐えている。だが、長くは持たない。
「トビアス……そのまま持ちこたえて……」
声は出ない。口が動いただけだ。でも、トビアスには伝わった。目が合った。頷いた。
私はゼクスの傍に駆け寄った。
膝をついた。肩に手をかけて、仰向けに返した。
顔の右側が石畳に擦れて血が滲んでいる。鼻の横が腫れ始めている。蒼い瞳が半分開いていた。焦点が合っていない。唇が微かに動いたが、声にならなかった。
首に指を当てた。顎の下、頸動脈の位置。玲子に教わった場所。
脈がない。
指の下に、何の振動もなかった。肌が冷えていく感覚だけがある。
『イリス。心臓が止まってる。呪術で体の電気信号が遮断されたんだと思う。あなたにわかるように言うと──心臓を動かす力が、封じられた。このままだと本当に死ぬ。すぐに胸の中心を叩いて心臓に刺激を与えないと──』
玲子の声だった。震えていない。看護師の声だった。
でも、動けなかった。
王がこちらを見ていた。紫の瞳が、穏やかに。
「ちょうどいい。答えを聞こう。受け入れるかね」
トビアスが押されている。白光が明滅している。限界が近い。
ゼクスの蒼い瞳が、私を見ていた。焦点は合っていない。でも、見ている。
この手を、もう一度握りたい。
この人の名前を、呼びたい。
死なせない。
誰にも、死なせない。
体の奥で、何かが軋んだ。千年の壁に、亀裂が走っている。
もう、黙っていない。
口を開いた。
第33話をお読みいただきありがとうございます。
ゼクスが倒れる場面です。
「戦鬼」の動きに隙が生まれた理由を、戦闘能力の問題にはしたくありませんでした。この人がつい先日まで命を懸けて仕えていた相手だ。その体に手をかける一瞬の躊躇が、千年の呪術の使い手に対して致命的な隙になる。人間としては当然の揺れが、こういう形で返ってくる。それを書きたかった。
顔面から石の床に叩きつけられて動かなくなる。首に指を当てて、脈がない。この場面を書いている時間は、あまり居心地が良くなかったです。
トビアスの白い光が王の呪術を弾く場面で、本人が一番驚いているのは意図的です。守護の血族の力は、覚悟や訓練で出るものではなく、守るべき相手が危機に陥った瞬間に体が勝手に動くものとして書いています。




