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千年の呪いで声が出ません。でも死んだ看護師が頭の中に転生してきたので、無言で命を救っていたら副騎士団長に溺愛されました。  作者: 花月 宙


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第32話「翌朝までの夜」

石の部屋で、最後の蝋燭が消えかけていた。

暗闇の中で、呼吸を整えている。膝の上に置いた手は、もう震えていなかった。

『玲子』

『うん』

『聞きたいことがある。ずっと聞けなかったこと』

沈黙。玲子は何を聞かれるか、わかっていたのかもしれない。

『玲子は──帰れるの? 元の世界に』

長い間があった。蝋燭の芯が最後の脂を吸って、ちりちりと音を立てている。

『多分帰れない。私は死んだとおもうの。首を絞められて、胸を刺されて、救命センターの冷たい床が最後の記憶。そして、気がついたら空からあなたが私のように襲われているところが見えたの』

淡々とした声だった。看護師が患者の家族に予後を説明する時の、あの声。感情を押し込めて、事実だけを差し出す声。

『……ごめんね、玲子。私のせいで──』

『違う。あなたのせいじゃない。私が飛び込んだの。あなたの体に。自分で選んだ』

『それにね。帰れなくて良かったとすら思ってる。看護師としての十年間は、悪くなかった。でもここでの数ヶ月は──あなたと過ごした時間は、私の人生で一番、意味があった』

それ以上は聞かなかった。聞く必要がなかった。

    *

同じ頃、グレゴールの指揮室。

松明が二つ。机の上に城塞の見取り図が広げられている。

ゼクスは腕を組んで壁に背を預けていた。蒼い瞳が見取り図を睨んでいるが、眉間の皺はいつもより一本多い。

「正面から行けば反逆罪だ」

グレゴールが低く言った。

「わかっている」

「わかっていて、行くのだな」

「行かんわけにはいかん」

グレゴールが顎を撫でた。老いた指が、見取り図の上を這う。

「城塞の地下構造は、ルーゲンの旧領主が作った貯蔵庫が元だ。入口は三つ。正門側、東翼、それから──ここだ」

指が止まった。城壁の北側、崩れかけた塔の地下に通じる細い通路。

「ヴォルフの第二騎士団は城壁の外周を固めている。正門と東翼は護衛が詰めているだろう。だがこの北塔は半壊しておる。守備の優先順位は低い」

「そこから入る」

「一人では足りん。護衛を正門に引きつける陽動がいる」

ゼクスが顔を上げた。

「陽動に使える人数は」

「第三騎士団は帰還命令下にある。公然と動かせば反逆だ。だが──」

グレゴールが目を細めた。

「わしが酒を飲みすぎて正門の広場で騒ぐ分には、反逆にはなるまい。老人の酒癖として処理できる」

ゼクスの蒼い瞳が、一瞬だけ揺らいだ。

「騎士団長が道化を演じるのか」

「お前が戦鬼を演じてきたのと同じだ。必要な役を演じるだけだ」

沈黙が落ちた。松明が爆ぜた。

「北塔からの通路は狭い。大剣は振れん」

「短剣に持ち替える」

「地下の構造を知らん。迷えば間に合わない」

ゼクスが答えようとした時、指揮室の布が揺れた。

誰かが外に立っていた。

「……入れ」

布をめくって入ってきたのは、トビアスだった。顔色が悪い。眠っていないのだろう。だが目だけが異様に澄んでいた。

「聞いてました。すみません」

「盗み聞きか」

「違います。ここに来なきゃいけない気がしたんです。なぜかはわかりません。でも──地下のことなら、俺が行きます」

グレゴールとゼクスが同時にトビアスを見た。

「お前が地下の構造を知っているのか」

「知りません。知らないはずです。でも──」

トビアスが自分の胸を押さえた。

「あの子がどこにいるか、わかるんです。今もわかる。この胸が、そっちだと言ってる。北塔の下。階段を降りて、左、左、まっすぐ。そこにいる」

グレゴールの目が鋭くなった。古い文献の一節が、頭の中で鳴っているのだろう。守護の血族は常に巫女の傍らに在った。

「……お前が先に行け。道を開けろ。ゼクスは後から入る」

トビアスが頷いた。迷いのない動きだった。この男がこんな顔をするのを、ゼクスは初めて見た。線の細い、いつも少し頼りない幼馴染の兵士。それが今、別人のように立っている。

「ゼクス」

グレゴールが声を落とした。

「王に手を出すな」

「……」

「殺せば内乱になる。あの娘も望まんだろう。お前の仕事はイリスを連れ出すことだけだ。王への追求は、後でやる」

ゼクスは答えなかった。代わりに、壁に立てかけてあった短剣を手に取った。

    *

もう一つの天幕で、蝋燭が灯っていた。

アデス・メルヴィスは椅子に座ったまま、手紙を読んでいた。父からの返信。三日前に出した問い合わせへの答え。

短い手紙だった。

「家の名誉のために知る必要のないことがある。これ以上聞くな」

知る必要のないこと。

碧い瞳が、手紙の上で止まっていた。

知らなかった。百年前の粛清も、巫女の血統の監視も、メルヴィス家の本当の役割も。父は知っていたのかもしれない。祖父も。でも誰も教えなかった。知る必要がないと、決められていた。

イリスの紅い瞳が浮かんだ。筆談で問いかけてきた、あの日の目。

あの子は今、王に閉じ込められている。功を讃えると呼び出されて、戻ってこない。

ゼクス様は癪ですがあの娘を助けに行くでしょう。そのような優しいお方です。

ここで私は愛するゼクス様のお役に立ちましょう。

アデスは立ち上がった。侍女を呼んだ。

「護衛の夜間配置を調べなさい。王の侍従に、メルヴィス家の名前で聞けば教えてくれるはずよ」

「お嬢様、それは──」

「聞きなさい」

侍女が驚いた顔をした。アデスがこの口調を使ったのは、初めてだった。

    *

深夜。

アデスの侍女が、グレゴールの指揮室にいるゼクスに紙を届けた。護衛の配置。交代の時間。地下への入口の鍵の所在。

ゼクスがグレゴールに紙を渡すと受け取ったグレゴールは侍女に向かって頷いた。

「あの令嬢に伝えてくれ。『ゼクスが感謝していた』と」

侍女が去った後、グレゴールがゼクスとトビアスを見た。

「護衛の交代は夜明け前の一刻。その隙が使える」

ゼクスが短剣を鞘に収めた。

「行くぞ」

    *

石の部屋で、暗闇の中に座っている。

最後の蝋燭が消えてから、どれくらい経っただろう。時間の感覚が薄れている。

朝が来れば、王が来る。答えを求めに。

声を出す。出してみせる。

その覚悟は、もう揺らがなかった。

遠くで、かすかに音がした。石を踏む足音。速い。近づいてくる。

一つではない。

扉の向こうで、短い叫びと金属音が響いた。

胸の奥で、封印が脈打った。違う。封印だけじゃない。もっと深い場所で、何かが応えている。

この足音を、知っている。


第32話をお読みいただきありがとうございます。

玲子がどこから来て、なぜイリスの中にいるのかを、最初からある程度決めていましたが、それをイリスに語らせる場面をいつ書くか、ずっと迷っていました。

最後の夜を選んだのは、ここしかないと思ったからです。翌朝には王が答えを取りに来る。もう後がない。そのタイミングでようやくイリスは聞けた。「帰れるの」と。

「帰れなくて良かったとすら思ってる」と言う玲子の声を、看護師が患者の家族に予後を伝える時の声として書きました。感情を押し込めて事実だけ差し出す声。それが玲子の誠実さの表れでもあり、泣かないための彼女なりの強さでもあると思っています。

アデスが護衛配置を調べて情報を送る場面は、短くしか書きませんでしたが、この話でのアデスの選択は好きな場面のひとつです。

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