第31話「呪王の末裔」
王が来た。
ルーゲンの城門に王家の紋章旗が翻ったのは、二十日の期限まであと三日という朝だった。
第二騎士団の精鋭が隊列を組み、城塞の大通りを進んでくる。その中央に、一台の馬車。装飾は控えめだが、車輪の軸受けから窓枠の細工に至るまで、全てが一級品であることが遠目にもわかる。
馬車が広場に止まった。扉が開く。
最初に見えたのは、細い手だった。学者の手。剣を握ったことのない、白い手。
アルヴァン三世。ヴァイセン王国の現王。
白髪交じりの黒髪を丁寧に撫でつけ、痩身の体を質素な外套で包んでいる。顔立ちは穏やかで、知的で、口元にはかすかな微笑みすら浮かんでいた。
目が合った。
紫の瞳。
深く、静かな紫。怒りも喜びもなく、ただそこに在る色。あの瞳に見つめられた瞬間、体の奥で呪いが震えたのがわかった。反応している。私の中の封印が、この人の存在に反応している。
『イリス。この人──あなたの体が、怖がってる』
玲子の声が硬い。
王は広場に集まった将兵を見渡した。穏やかな目だった。労いの言葉を述べ、講和条約の意義を語り、兵士たちの勇気を称えた。声は柔らかく、言葉は温かく、どこからどう見ても賢王だった。
グレゴールが王の前に進み出て、跪いた。ゼクスも続いた。
王の紫の瞳が、ゼクスの上で一瞬だけ止まった。それからゆっくりと動いて──私を見つけた。
広場の隅に立つ、水色の髪の小さな影を。
微笑みが深くなった。
*
呼び出しが来たのは、その日の午後だった。
「国王陛下が、ルーゲンの奪還を医療の面から支えた医療班の娘に会って功を讃えたいと仰せだ。案内せよ」
王付きの侍従が、淡々と伝えた。
ゼクスの蒼い瞳が凍った。
「俺も同行する」
「陛下は二人きりで話したいと仰せだ」
「断る。この娘は俺の──」
「ゼクス」
グレゴールの声が低く割って入った。ゼクスを見つめる老いた目に、苦渋があった。
「ここで逆らえば反逆罪だ。今は、従え」
ゼクスの拳が白くなった。歯を食いしばる音が聞こえた。
私は紙を出した。
──だいじょうぶ
ゼクスが紙を見た。蒼い瞳が揺れた。
大丈夫ではない。わかっている。でも、ここでゼクスが捕まれば、全部終わる。
『イリス。一人で行くの?』
『……うん。玲子がいるから、一人じゃない』
ゼクスの前を通り過ぎる時、大きな手が一瞬だけ私の手に触れた。指先が、かすかに震えていた。
*
城塞の奥、講和会談用に整えられた石造りの部屋。窓のない部屋だった。壁には燭台が三つ。蝋燭の炎が静かに揺れている。
王が椅子に腰かけていた。護衛はいない。侍従も下がらせたようだった。本当に二人きりだ。
「座りなさい。楽にして」
穏やかな声だった。父親が子供に語りかけるような声。
向かいの椅子に座った。膝の上で、手を組んだ。震えを止めるために。
「名前は聞いているよ。イリス、だね。奇跡の力で負傷した兵士たちを治療してくれたそうだ。ありがたいことだ。今では女先生と呼ばれているそうじゃないか。その女先生に白衣を用意した。治療の時に着てくれたまえ」
紙を出そうとした。王が片手を上げて止めた。
「書かなくていい。私が話すから。君は聞いてくれればいい」
紫の瞳が、蝋燭の光を映している。穏やかに、静かに。
「もう一つ、国王の私から大事なお願いがある。聞き届けてくれると信じているよ」
間を置いて、王が続けた。
「さて、君の体が何に反応しているか、わかっているだろう。わかっていないふりをするには、君は賢すぎる」
心臓が跳ねた。
「この国の王家は、千年以上続いている。教科書にはそう書いてある。建国王が統一戦争に勝ち、王権を確立した、と。だが、それは嘘だ」
王は微笑んだまま語った。怒りもなく、悲しみもなく。事実を述べるように。
「我が一族は、古代より続く呪王の末裔だ。呪王という名が悪者を連想させるので、私としてはずいぶん嫌悪しているのだがね。とはいえ祖先がそう呼ばれていたのだから、本当に悪者だったのかもしれない」
苦笑するように目を細めた。自嘲だった。あるいは、自嘲の形をした演技だった。どちらなのか、わからない。
「千年前、巫女王の一族から王権を奪った。奪った、というよりも──声を封じた。巫女の力の源は言霊だ。声を封じれば、民を束ねる力を失う。力を失えば、王権は移る。世の移り変わりの一つだ。それだけのことだよ」
それだけのこと。
千年分の沈黙を、この人はそう言った。
「君の家系の女たちが代々声を失ってきたのは、我が一族が呪術で封じ続けてきたからだ。体質ではない。病でもない。王権を守るための、必要な措置だった」
必要な措置。
母が声を出せなかったのは、この人の一族がそうしたから。祖母も。その前も。名前も知らない女たちが、何世代にもわたって。
怒りが腹の底から湧いてくる。冷たくて、硬い怒り。呪いと知った夜に覚えた、あの感情。
でも王は微笑んでいた。微笑みのまま、続けた。
「百年前、君の先祖が封印を破った。命と引き換えに。我が先代はそれを鎮圧し、巫女の血筋を根絶した──つもりだった。一人だけ、逃がされた女児がいた。君の祖先だ」
全て知っていた。全て、最初から。
「メルヴィス家には監視を任せていた。彼らは忠実だったよ。忠実すぎて、何も疑問に思わなかったがね」
アデスの顔が浮かんだ。何も知らなかった碧い瞳。知らされなかった。知る必要がないと、この人が決めた。
「君の声が戻れば、民は君に従うだろう。言霊とはそういう力だ。王権が脅かされる。秩序が崩れる。千年かけて築いた安定が、たった一人の娘の声で壊れる」
王が身を乗り出した。紫の瞳が、初めて感情を帯びた。それは怒りではなかった。信念だった。
「これは善悪の話ではない。秩序の話だ。私は悪ではない。必要なことをしているだけだ」
『……イリス。この人は、本気でそう思ってる』
玲子の声が震えていた。恐怖ではない。怒りだった。
『必要な措置だって。秩序のためだって。あなたのお母さんの声を奪ったことが、秩序だって。この人は──本気で信じてる。だから怖いんだ。悪人より、よっぽど怖い』
紙を取り出した。炭の棒を握った。
何か書こうとした。言いたいことがあった。母のこと。祖母のこと。千年分の沈黙のこと。
でも、手が震えすぎて、一文字も書けなかった。
代わりに、王の目を見た。紫の瞳を、まっすぐに。
王は微笑みを消さなかった。でも、目の奥の光が変わった。穏やかさの下に、鋼があった。
「聡い子だ。その目は、母親に似ているのかもしれないね」
母を、知っている。この人は、母の最期を命じた側の人間だ。
「提案がある。聞きなさい」
王が指を組んだ。
「君に施す呪術がある。声も力も全てを奪う術だ。しかし──我が一族の呪術を疑うわけではないが、私は慎重な男でね。その呪術を施した上で、舌を半分、切らせてもらう」
息が止まった。
「君の先祖のように命を懸けて声を出す者が、二度と現れないようにするためだ。さらに、君が子孫を残さぬように、完全に外界と遮断された修道院で神に仕えて生きてもらう」
修道女として。声も、舌も、力も、全てを奪われて。誰にも会えず。子も産めず。
「私は、自分の行為が残酷だとわかった上でそれを必要だと信じている」
その言葉は救いのようでもあり、逃げ場を奪う鎖のようでもあった。
「受け入れるなら、命は助ける。あの副騎士団長にも、老騎士団長にも、手は出さない。君を守ろうとした者たちは全員、罪に問わず帰す」
王が身を乗り出した。紫の瞳が、蝋燭の光を映している。
「だが拒否するなら──副騎士団長ゼクス・ブレンナーを反逆罪で処刑する。王命に背いた証拠は十分だ。彼が死ねば、あの老騎士団長も同罪だ。君を守ろうとした者は、全員死ぬ。その上で、力ずくで封じる。君の先祖がそうだったように」
王は立ち上がった。窓のない部屋の中を、ゆっくりと歩いた。
「そして人望の厚い第三騎士団を処分したとなれば、おそらくこの国には内乱が起きるだろう。多くの民が死ぬ。未だ見つかっていない巫女王の守護の一族も含めて、多くの者の血が流れることになる」
振り向いた。穏やかな微笑み。
「聡明な君が、いま幸せに暮らしている多くの民を巻き込んで、君が考えていることを行うはずがないと──私は信じているよ」
返す言葉がなかった。
この人の論理には、隙がない。秩序。安定。民の幸福。全て正しいように聞こえる。正しいように聞こえるから、反論できない。
「百年前、君の先祖は圧政に追い詰められて、命と引き換えに呪縛を解いた」
王がかがみこみ、私の目を覗き込んだ。紫の瞳が、すぐ近くにあった。
「現王の私は、圧政をしているかい?」
穏やかな声で。微笑みを浮かべたまま。
「考える時間をあげよう。明日の朝までに答えなさい」
王が部屋を出ていった。扉が閉まる音が、石の部屋に反響した。
*
一人になった。
膝が震えている。手が震えている。体中が震えている。
『玲子』
『……ここにいるよ』
『私が一人、犠牲になれば、みんなが幸せに暮らせる。私は──もともと存在していないのと同じだった。記録もない。名前も残らない。私が生きようとすれば、多くの人が死ぬ』
長い沈黙が落ちた。
『イリス。何を言ってるの。騙されちゃ駄目。あの人の言葉を、飲み込んじゃ駄目』
玲子の声が鋭かった。
『呪術で国を治めるなんて、そもそも間違ってる。現王がどんなに穏やかでも、次の王がどうするかなんて誰にもわからない。声を奪って従わせるのは秩序じゃない。支配だよ。支配と秩序を、あの人はすり替えてる』
『でも──拒否したら、ゼクスが──みんなが──』
『だからあの人は、その脅しを使ったんだよ。あなたが優しいのを知ってるから。自分より他人を守る子だって見抜いてるから。あなたの優しさにつけ込んでるの。あれは取引じゃない。脅迫だよ』
胸が痛かった。玲子の言っていることは正しい。頭ではわかっている。でも──
『私がいなければ、こんなことにはならなかった。私が巫女の血なんか引いてなければ。声が出ない、ただの下働きのままでいれば──』
『イリス!』
玲子の声が叫んだ。心の中で、初めて、玲子が声を荒らげた。
『私はね、前の世界で、たくさんの患者を看てきた。自分なんかいなければいいと思って手首を切った子も、迷惑をかけたくないと言って治療を拒んだお年寄りも。みんな同じことを言った。自分がいなければ周りは幸せだって。でもね──それは間違ってるの。全部、間違ってる』
玲子の声が震えていた。怒りではなかった。もっと深い、切実な何かだった。
『あなたの声が聞きたいって言った人がいるでしょう。あなたを守るために王に逆らった人がいるでしょう。理由もわからず夜中に走ってきた子がいるでしょう。あの人たちにとって、あなたは「いなくていい存在」なんかじゃない。あなたがいなくなったら──あの人たちは、どうなるの』
ゼクスの顔が浮かんだ。「もう離さん」と言った蒼い瞳。グレゴールの疲れた目。トビアスの、理由のわからない涙。
『あの王の言うことが全部正しいとして。秩序が大事だとして。それでも──あなたの舌を切って、修道院に閉じ込めて、子供も産ませない。それを「必要な措置」って言える人間の言葉を、あなたは信じるの?』
『それに、民には賢王の顔をしていても、裏ではゼクスを毒殺しようとし、あなたを拉致した人間を信じるの』
信じない。信じられない。
その答えは、考えるより先に来た。体の奥から。腹の底から。
信じない。母の声を奪ったことを「秩序」と呼ぶ人間の言葉を、信じない。
『……玲子。私、声を出す』
『イリス──』
『今度こそ。あの人を──ゼクスを死なせないために。みんなを死なせないために。あの王に、舌を切らせないために。声を、出す』
『……でも、どうやって。まだ呪いは──』
『お母さんにはできなかった。おばあちゃんにもできなかった。でも、私には玲子がいる。千年の間、誰も持っていなかった力が、私にはある。あなたがいる』
沈黙。
玲子の声が返ってきた時、泣いていた。
『……うん。一緒に出そう。あなたの声を』
石の部屋で、声のない少女が拳を握った。
第31話をお読みいただきありがとうございます。
王との対面の場面は、この物語で最も長く準備してきた場面です。
書くにあたって一番気をつけたのは、王を「わかりやすい悪役にしない」ことでした。アルヴァン三世は怒鳴らない。侮辱しない。むしろ穏やかで、知性的で、自分の行いに罪悪感すら持っていない。「これは善悪の話ではない。秩序の話だ」と本気で信じている。
玲子が「悪人より、よっぽど怖い」と言ったのは、そのためです。悪人なら反論できる。でも善意で残酷なことをする人間には、言葉が届かない。
母の声を奪ったことを「必要な措置」と呼ぶ口で、「現王の私は圧政をしているかい」と穏やかに聞いてくる。その落差の気持ち悪さを、手が震えてしまって一文字も書けないイリスの沈黙で表したつもりです。




