第30話「奪還」
揺れている。
誰かの肩に担がれて、運ばれている。頭を下にした姿勢で、縛られた手足が麻袋の中でぶらぶらと揺れる。石畳を踏む靴音。それから、階段を降りる振動。一段、二段、三段。
『イリス。左に曲がった。階段を降りてる。地下だ』
玲子が数えている。恐怖の中で、彼女だけが正確に動いている。
『方角は城塞の東側。先遣隊の天幕群がある方角。……たぶん、城壁の地下通路か、貯蔵庫のどこかに向かってる』
階段が終わった。平坦な石の床を歩く音に変わる。空気が冷たくなった。湿った匂い。地下の匂いだ。
足音が止まった。
体が降ろされる。石の床に置かれた衝撃が、縛られた肘と膝に走った。
「ここでいい。袋は外すな」
知らない声だった。ディルクではない。もう一人の方。低く、乾いた、命令口調。
「……了解」
ディルクの声。従っている。この男も命令される側なのだ。
足音が一つ遠ざかっていった。見張り役が去ったのか。残ったのはディルクだけ。
石の床が冷たい。膝を抱えようとしたが、手首のロープが食い込んで動けない。
『玲子。怖い』
『知ってる。私も怖い。でも大丈夫。ゼクスが気づく。あの人は必ず来る』
必ず。その言葉にすがった。あの人は「すぐ戻る」と言った私が戻らなければ、すぐに動く。あの人はそういう人だ。
でも、ここがどこかわからなければ、来られない。
『玲子。階段は何段だった?』
『十四段。一段の高さから推定して、地下三メートルから四メートル。左に二回曲がった。まっすぐ歩いた時間は約二分。早歩きの速度で計算すると、薬草庫から百五十メートルから二百メートル──城塞の東端、城壁の内側あたり』
看護師の、距離と時間の感覚。患者の容態が変わるまでの秒数を体で覚えている人間の、正確な計測。
『ありがとう、玲子。全部、覚えておく』
伝えられれば。声が出れば。手が自由なら紙に書けるのに。
声が出ないことが、こんなにも重い鎖になる。
『……出してあげたい。あなたの声を。今すぐに』
玲子の声が震えていた。怒りだった。
*
トビアスが目を覚ましたのは、それから間もなくだった。
頭の後ろが割れるように痛い。手で触れると血がぬるりとついた。石畳の上に倒れている。薬草庫の裏手。夕闇が濃くなりかけている。
イリス。
跳ね起きた。頭がぐらりと揺れたが、構わなかった。走った。ゼクスの天幕へ。三十歩の距離が、途方もなく遠く感じた。
天幕の前にゼクスがいた。立っていた。すでに何かがおかしいと感じている顔だった。イリスが戻らない。それだけで、この人の目はもう警戒の色を帯びている。
「トビアス。その血はなんだ」
「イリスが──さらわれました。薬草庫の裏で、男が──袋に入れて──」
息が切れる。言葉が追いつかない。でも一つだけ、はっきり伝えなければならないことがあった。
「鍵束。兵站係の鍵束を持ってました。ディルクです」
ゼクスの蒼い瞳が凍った。
一瞬の沈黙。それから、全てが繋がった顔をした。ワイン蔵の鍵。ベラドンナの毒。消えた給仕兵。全部、同じ男だった。
「方角は」
「東。城壁の方です」
ゼクスはもう動いていた。天幕の中から大剣を掴み、走り出す。副官に一言だけ叫んだ。
「グレゴールに伝えろ。ディルクが裏切った。イリスが東に連れ去られた」
トビアスも走った。頭から血が流れている。視界がぐらつく。それでも足が止まらない。止められない。
「お前は下がれ。怪我をしている」
ゼクスが振り向かずに言った。
「嫌です」
自分でも驚くほどはっきりした声だった。
「俺が行かなきゃ駄目なんです。理由はわかりません。でも──俺が行かなきゃ駄目なんだ」
ゼクスの足が一瞬だけ止まった。振り向いた。血まみれの顔で、それでも退かない線の細い兵士を見た。
あの夜のことを思い出しているのかもしれない。イリスの天幕の前に、理由もなく引き寄せられるように現れたトビアスを。グレゴールが語った、守護の血族を。
「……ついてこい」
それだけだった。
二人の足音が石畳を叩く。城塞の東へ。夕闇の中を。
*
地下室で、足音が聞こえた。
遠くから近づいてくる。二つ。速い。石の階段を駆け降りてくる。
ディルクが立ち上がった。
「もう──こんなに早く」
驚愕の声。ディルクは逃げなかった。逃げる代わりに、短剣を抜いた。手が震えていた。
扉が蹴り開けられた。
蒼い瞳。銀灰の髪。大剣を手に、息一つ乱していない顔。
ゼクスだった。
ディルクが短剣を構える。ゼクスは見もしなかった。一歩で距離を詰め、短剣を握った手首を掴み、壁に叩きつけた。短剣が石の床に落ちる。乾いた金属音が地下室に反響した。
「どこだ」
低い声。ディルクの顔が蒼白になった。
部屋の隅で、麻袋が動いた。
ゼクスが振り向いた。二歩で駆け寄り、膝をつき、袋を裂いた。素手で。布が裂ける音がした。
光が入ってきた。松明の橙色の光。暗闇に慣れた目が眩む。
目の前に、蒼い瞳があった。
「……怪我は」
声が震えていた。あの戦鬼の、低く静かな声が。
首を振った。大丈夫。怪我はない。
ゼクスの手がロープに触れた。手首の結び目を、大きな指が不器用に解こうとしている。力加減を間違えないように。私の手首を傷つけないように。あの戦場で大剣を振るう手が、今は壊れ物を扱うように震えている。
ロープが解けた。手首に赤い跡が残っている。
ゼクスがその跡を見て、目を閉じた。
「……遅くなった」
首を振った。もっと強く、何度も。遅くない。来てくれた。見つけてくれた。
声が出ない。伝わらない。
だから、手を伸ばした。ゼクスの手に、自分の手を重ねた。小さな手が、大きな手に触れた。
それだけで。
蒼い瞳が開いた。私を見た。
「もう離さん」
短い言葉に、この人の全部が詰まっていた。
入口で、トビアスが壁にもたれて座り込んでいた。血まみれの顔で、安堵の息を吐いている。なぜか、泣いていた。自分でも理由がわからないという顔で、涙を拭っていた。
第30話をお読みいただきありがとうございます。
地下室で玲子が「十四段、左に二回、早歩きで二分」と正確に距離を割り出す場面は、彼女が看護師であることの意味を一番感じる場面だと思っています。患者の容態変化を秒単位で把握してきた人間の感覚は、こういう場所で生きる。
ゼクスが麻袋を素手で裂いて、手首のロープを解く場面を書いていた時、戦場で大剣を片手で振るう手が壊れ物を扱うように震えている、という矛盾が一番書きたかったことでした。「もう離さん」はこの物語の中でゼクスが言う言葉の中で、最も短くて、最も重いものだと思って書きました。
トビアスが血まみれの顔で理由もわからず泣いていた。彼自身も「なぜ泣いているのか」わかっていない。でも読者の方には、たぶん伝わっていると思います。
次話からは第3部の核心に入っていきます。引き続きよろしくお願いします。




