第29話「内通者」
二十日のうち、十二日が過ぎた。
第二騎士団の先発隊がルーゲンに到着したのは三日前のことだった。ヴォルフ騎士団長は噂通り堅実な男で、グレゴールとの引き継ぎは滞りなく進んでいる。城壁の守備配置、糧食の備蓄、周辺の哨戒路。グレゴールが築いた防衛網を、ヴォルフは几帳面に引き受けていった。
何もかもが穏やかに進んでいた。穏やかすぎた。
『嵐の前、ってやつかな』
玲子の声が、心の中で呟く。
日中は負傷兵の処置をして、夕方にはゼクスの天幕の隣に戻る。ゼクスが言った通り、夜は一人にならない。守られている。
でも、守られているということは、狙われているということだ。
ゼクスはいつもより頻繁に陣地を巡回している。副官に何か指示を出し、夜は天幕の外で長く起きている。グレゴールは文献を読み続けていた。守護の血族の手がかりを探している。だが確かなことは何も出てきていない。
残り八日。焦りが、少しずつ首を締めてくる。
兵士たちは変わらず私を「女先生」と呼び、包帯を巻けば礼を言ってくれる。その日常が続いている。でもその裏側で、何かが静かに動いている気配がある。証拠はない。ただ、空気が重い。
先遣隊が到着してから、陣地に見慣れない顔が増えた。外交使節団の随員、護衛騎士、従者。王の到着に備えた準備が進んでいる。新しい天幕が立ち、新しい旗が翻る。ルーゲンの城塞は日に日に華やかになっていく。
その華やかさが、怖かった。
*
夕暮れ。薬草庫の在庫を確認しに行った。明日の処置に必要な消毒用の薬草が残り少ない。
ゼクスには「すぐ戻る」と紙に書いて見せた。蒼い瞳が一瞬だけ険しくなったけれど、薬草庫はここから三十歩の距離にある。頷いてくれた。
石造りの小屋の扉を開け、棚を確認する。消毒草の束が三つ。止血草が五つ。煎じ薬の材料はまだ十分ある。炭の棒で紙に書き出していく。
棚の奥の配置が変わっていることに気づいた。前に整理した時と、並びが違う。誰かが最近ここに入って、薬草を動かした。
補充は兵站係の仕事だ。ディルクという名の下士官。物資の受け入れと配分を管理している男。三十代、平凡な顔。薬草を受け取る時に何度か顔を合わせたことがある。いつも事務的で、必要なことだけ話して去っていく。
兵站係が薬草庫に入るのは当然だ。気にしすぎだ。
紙の上に目を戻した時、扉の方で足音がした。
振り返ると、大きな薬草袋を持ったディルクだった。
「補充の確認ですか。私がやりますよ」
いつもの事務的な声。いつもの平凡な顔。何もおかしくない。
頷いて、棚に向き直った。在庫の書き出しに戻る。
『イリス、今の人の目──』
玲子が言い終わる前に、背後で布が擦れる気配がした。
薬草を入れる大きな麻袋が、頭から被さってきた。
視界が暗転する。麻の粗い繊維が頬を擦る。叫ぼうとした。口を開けた。でも──声が出ない。
声が出ないのだ。いつものように。生まれた時から、ずっと。
助けを呼べない。
袋の中でもがくが、体があまりに小さく、細すぎる。袋ごと持ち上げられ、外から腕を縛られた。ロープが腕ごと体に食い込み、足も一纏めにされる。あっという間だった。
「暴れないでください。怪我をさせたくない」
ディルクの声だった。いつもの事務的な声とは違う、低い声。
「……すまない。命令なんです」
何度も薬草を受け渡した、あの平凡な男の声。
『イリス、覚えて。この揺れ方、進んでる方角──』
玲子が冷静だった。恐怖の中で、彼女だけが観察を続けている。
でも私は震えが止まらなかった。暗い。狭い。体が動かない。
幼い頃の記憶が蘇る。暗い部屋。鎖。母の恐怖。あの時と同じだ。同じことが、また起きている。
*
トビアスは朝から落ち着かなかった。
理由はわからない。戦闘の予感とも違う。胸の奥が騒いでいる。心臓がどくどくと拍動を速めて、何をしていても集中できない。剣の手入れをしても、飯を食っても、誰かと喋っていても、胸の奥の何かが「行け」と叫んでいる。
どこに。誰のところに。
答えはいつも同じだった。自分でも呆れるほど、同じだった。
昼の哨戒任務の間もそうだった。城壁の上を歩きながら、何度もイリスのいる区画の方を振り返った。同僚に「どうした、腹でも痛いのか」と笑われた。腹じゃない。もっと奥だ。体の芯が、何かに引っ張られている。
こんなことは前にもあった。ゼクスのワインに毒が盛られた夜。あの時も朝から胸が騒いでいた。気のせいだと思って、何もしなかった。
今度は、気のせいにしたくなかった。
夕暮れ時、とうとう我慢できなくなった。イリスの顔を見れば収まるかもしれない。そう思って、ゼクスの天幕の方へ足を向けた。
天幕にイリスの姿はなかった。ゼクスの副官に聞くと、「薬草庫に行きました。すぐ戻ると」。
すぐ戻る。三十歩の距離だ。心配するようなことではない。
でも、足が勝手に薬草庫に向かっていた。
石造りの小屋の角を曲がった時、影が見えた。
大きな麻袋を担いでいる。袋の中で何かが動いている。小さな体がもがいている。
足が止まった。
イリスだ。
「──っ!」
叫ぼうとした。声が喉から出る前に、背後で空気が動いた。
頭に衝撃。視界が白く弾けて、膝が折れた。
石畳に倒れながら、手を伸ばした。イリスの方に。届かない。指先が石を掻く音だけが、やけにはっきり聞こえた。
暗闇が落ちてくる。でも目を閉じる直前、一つだけ見えた。
袋を担いでいた男の腰に、兵站係の鍵束がぶら下がっていた。薬草庫の鍵。糧食倉庫の鍵。ワイン蔵の鍵。
ディルク。
あいつだ。ゼクスのワインに毒を入れたのも。行方不明になった給仕兵を消したのも。全部──全部あいつが──
意識が途切れる寸前、体の奥で何かが叫んだ。言葉にならない、古い古い叫び。
守れ。
守れなかった。
手を伸ばしたまま、石畳の冷たさだけが残った。
第29話をお読みいただきありがとうございます。
「三十歩の距離」が怖いのだということを、書きたかった話です。
ゼクスが目を離したのは三十歩。イリスが「すぐ戻る」と紙に書いた。それだけのことで、最悪の事態は起きます。敵は派手に来るのではなく、平凡な顔で、いつもの声で、事務的な動作の中に紛れている。
声が出ない恐怖は、この話で一番重く書いています。叫べない。助けを呼べない。幼い頃の暗い部屋の記憶が戻ってくる。その中で、玲子だけが冷静に歩数と方角を数え続けている。この二人の役割分担が一番機能した場面かもしれません。
トビアスが「理由はわからないけど行かなきゃいけない」と感じ続けて、限界で動く。「気のせいにしたくなかった」という一文に、彼の覚悟を込めました。倒れながら手を伸ばして届かない。そのまま意識を失う直前に「守れなかった」と思う。これが次話の布石です。




