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千年の呪いで声が出ません。でも死んだ看護師が頭の中に転生してきたので、無言で命を救っていたら副騎士団長に溺愛されました。  作者: 花月 宙


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第28話「駒」

帰還命令から五日目。

先遣隊が来た。

講和条約の締結に先立ち、儀典の準備と宿営地の整備を行う外交使節団。王家の紋章旗を掲げた騎馬の列が、ルーゲンの城門をくぐる。その中に、見覚えのある金髪があった。

アデス・メルヴィス。

馬車の窓から城塞の街並みを見回す碧い瞳は、前に来た時と同じように美しかった。でも、私の目にはもう、あの頃と同じようには映らない。

『……来たね、あの子』

玲子の声が低い。

アデスが馬車を降りた。旅装を解く仕草すら優雅で、護衛の騎士たちの目が吸い寄せられている。

私を見つけた。碧い瞳が一瞬だけ揺れて、すぐに微笑みに変わった。

「まあ、イリスさん。お元気そうですわね。お声の具合はいかがですの?」

変わっていない。この人は何も変わっていない。

頭を下げた。それ以上のことはできない。したくもなかった。

    *

「メルヴィス家が百年前の粛清に関わっていた証拠が出た」

グレゴールの指揮室。ゼクスと私の前に、古い記録の写しが広げられている。

「百年前、巫女の一族が潜伏していた村に悪徳領主が送り込まれた。飢饉を引き起こし、一族を追い詰めるためにだ。その領主の任命に動いたのが、当時のメルヴィス家の当主だった」

グレゴールの指が、褪せた文字を辿っている。

「メルヴィス家は、王家に最も近い名門として、巫女の血統を監視する役割を担っていた可能性がある。代々、知ってか知らずか」

ゼクスの眉間の皺が深くなった。

「あの令嬢は知っているのか」

「わからん。だから確かめる必要がある」

グレゴールが私を見た。

「イリス。お前が聞け」

心臓が跳ねた。

「あの娘は、お前の前でだけ隙を見せる。善意のつもりで接している相手にだけ、本音が出る。わしやゼクスが問い詰めれば壁を作るだろう。だが、お前の問いかけには──」

『無防備になる。自分より下だと思っている相手には、人は嘘をつく必要を感じないから』

玲子が補った。その通りだった。アデスは私を対等な相手だと思ったことがない。だからこそ、私の前では取り繕わない。

紙に書いた。

──やります

    *

アデスの天幕を訪ねたのは、夕暮れ時だった。

先遣隊に用意された天幕は、前線のものとは別物だった。絹の敷布、銀の燭台、花の香りのする衣装箱。アデスは椅子に腰かけて、侍女に髪を梳かせていた。

「あら、イリスさん。どうなさったの?」

笑顔。完璧な笑顔。悪意のかけらもない笑顔。

紙を差し出した。

『あなたのお家のこと 少し聞いてもいいですか』

「わたくしの家? メルヴィス家のことですの? ええ、もちろん。何でもお聞きになって」

嬉しそうですらあった。自分の家のことを語れるのが誇らしいのだろう。

次の紙を出した。手が震えないように、膝の上で押さえた。

『百年前 あなたのお家が ある村に領主を送ったことを 知っていますか』

アデスの笑顔が消えた。消えたのではない。困惑に変わった。

「百年前……? わたくし、そのような話は聞いたことがありませんわ。メルヴィス家の歴史は幼い頃から教わりましたけれど……村に領主を? どちらの村のことですの?」

嘘ではなかった。

目を見ればわかる。この人は嘘をつく時、まず視線を上に向けて言葉を選ぶ。今は違う。碧い瞳がまっすぐに私を見て、本当に困っている。

もう一枚。

『その村の声の出ない女の話 知っていますか?』

アデスの手が、膝の上で止まった。

「声の出ない……」

碧い瞳が揺れた。私の喉を見た。それから、私の目を見た。

「まさか。イリスさん、あなたの──」

言いかけて、止まった。何かが繋がりかけている。でも、繋がりきらない。アデスの知識には、それを繋げるための情報が欠けている。

王家が何をしてきたか。メルヴィス家がどう使われてきたか。自分が何の駒だったか。

何も、知らされていない。

「わたくし……存じ上げませんわ。本当に。でも……」

アデスの声が、初めて小さくなった。自信に満ちた声が、初めて萎んだ。

「……何かが、おかしいのですわね?」

私は頷いた。

それだけで十分だった。アデスは頭が悪くない。知らされていなかっただけで、馬鹿ではない。「何かがおかしい」と感じ取れるだけの知性はある。

でも、今ここで全てを明かすわけにはいかない。グレゴールとも確認していない。王の耳に入れば、二十日を待たずに動かれる。

紙に書いた。

『ありがとうございます それだけ聞きたかったんです』

立ち上がり、一礼して天幕を出た。

背後で、アデスが侍女に言う声が聞こえた。

「……髪は、もういいわ。少し一人にして」

その声は、前線に来た時の高慢な令嬢のものではなかった。

    *

指揮室に戻ると、グレゴールとゼクスが待っていた。

『知らなかった 本当に何も』

紙を見せた。

グレゴールが頷いた。予想通りだったのだろう。

「あの娘自身は駒だ。だがメルヴィス家は違う。家としては王家の手足として機能してきた。当主が知っているかどうかは別として、構造がそうなっている」

ゼクスが壁に背を預けたまま、低く言った。

「あの令嬢が知らんでも、先遣隊の中に目がいるだろう」

「おそらくな」

『目。密偵のこと?』

グレゴールが頷いた。

「先遣隊に紛れて入ってきた者がいるかもしれん。あるいは──もっと前から、この騎士団の中にいるかもしれん」

空気が冷えた。

騎士団の中に。

『玲子。ベラドンナの毒……』

『うん。ワインに毒を入れられる人間。物資を管理できる人間。ずっと近くにいた人間』

背筋に冷たいものが走った。

敵は、外から来るとは限らない。

「イリス」

ゼクスの声。振り向くと、蒼い瞳がいつになく厳しかった。

「今日から、夜は一人で天幕にいるな。俺の目の届く場所にいろ」

命令ではなかった。でも、断れる声音でもなかった。

頷いた。

夜が来る。二十日のうち、五日が過ぎた。


第28話をお読みいただきありがとうございます。

今回のアデスの場面は、ずっと書きたかった場面です。

高慢で無神経な令嬢として登場したアデスが、実は「何も知らされていなかった駒」だった。悪役に見えた人間が加害者でも被害者でもある、という構図を、彼女の碧い瞳が揺れる瞬間で表したつもりです。「何かが、おかしいのですわね」と初めて自分の知識の外側に気づく場面を書いていて、アデスという人物がやっと動き出した気がしました。

イリスがグレゴールから「お前が聞け」と命じられた理由が、玲子の分析通りです。自分より下に見ている相手には人は嘘をつかない。イリスはその立場を逆手に取った。声がなくても戦える、という話でもありました。

ディルクへの言及はまだこの段階では名前が出ていませんが、「騎士団の内側に目がいる」という空気はここで張っています。

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