第27話「母たちの声」
眠れなかった。
天幕の中で毛布にくるまって、暗闇を見つめている。隣の天幕では兵士たちの寝息が聞こえる。遠くで見張りの兵が歩く足音。松明の火がぱちぱちと爆ぜる音。
いつもと同じ夜のはずだった。
でも、何もかもが違って聞こえる。
『イリス。起きてる?』
玲子の声。心の中で、静かに。
『……うん』
『だよね。私も眠れない』
沈黙が流れた。いつもなら玲子が何か軽口を言って、私が呆れて、それで少し楽になる。でも今夜は、玲子も黙っていた。
『ねえ、玲子』
『うん』
『呪い、って、どういうことなの』
自分でも馬鹿な質問だと思った。グレゴールの説明は聞いた。古文書の記述も見た。頭では理解している。でも、心がついていかない。
『……私の世界にはね、呪いなんてものは無かったよ。でも、似たようなことはあった』
玲子の声が、いつもより低かった。
『声を奪うっていうのはね、イリス。殴ったり、閉じ込めたりするのと同じなの。誰かの自由を奪う行為。ただ、もっとたちが悪い。外から見えないから。見えないから、「体質」で済まされてしまう。被害者自身が、自分が被害者だって気づけなくなる』
胸が、締めつけられた。
被害者。
その言葉が、重い。
『お母さんも、そうだったんだよね』
母の顔が浮かんだ。
暗い部屋。小さな窓から差す細い光。紙と炭の棒だけが、私と母を繋いでいた。
母は笑っていた。声が出なくても、笑うことはできた。紙の上に、丸い大きな文字を書いた。
「イリス だいすき」
あの文字を、今でも覚えている。
母は不幸だったのだろうか。わからない。少なくとも、私に笑いかける時の母は、幸せそうに見えた。でも──夜、私が眠った後で、母が何を思っていたのかは、知らない。
声が出たら。
たった一度でも、私の名前を呼べたら。
母は、それを望んだことがあったのだろうか。
『……あったに決まってるよ』
玲子の声が震えていた。
『あなたのお母さんだけじゃない。そのお母さんも。その前も。何代も何代も。みんな声が出なくて、みんなそれを「仕方ない」って受け入れて。誰一人、本当の理由を知らされなかった』
知らされなかった。
その言葉で、何かが胸の奥で動いた。
仕方ない、ではなかったのだ。
体質でも、運命でも、天罰でもなかった。
誰かが──意図を持って──奪ったのだ。母の声を。祖母の声を。その前の、名前も知らない女たちの声を。千年にわたって。一人ずつ。生まれるたびに。
許せない。
その感情が、静かに、でも確かに、腹の底から湧き上がってきた。
怒りだった。
これまで感じたことのない種類の怒り。ヘルマンに蔑まれた時のような悔しさではない。アデスの言葉に傷ついた時のような悲しみでもない。もっと深い場所から来る、冷たくて、硬い怒り。
母は、怒ることすらできなかった。
奪われたことを知らなかったから。怒る理由があることすら、知らなかったから。
なら、私が怒る。
母の分も。祖母の分も。その前の、千年分の沈黙の分も。
『玲子』
『うん』
『私、怒ってる』
『……うん。知ってる。ずっと待ってた、その言葉』
玲子の声が温かかった。泣いているような声だった。
『怒っていいんだよ、イリス。怒れるのは、あなたが強くなったからだよ』
*
天幕の布が揺れた。
外に、気配があった。人の気配。見張りの巡回ではない。動かずにそこに立っている。
布の隙間から、月明かりに照らされた銀灰の髪が見えた。
ゼクスだった。
天幕の入口の前に立っている。中に入ってこない。ただ、そこにいる。
どれくらい前からいたのだろう。
毛布をはねのけて、外に出た。夜気が冷たい。裸足の足に、石畳の冷たさが伝わる。
ゼクスが振り向いた。蒼い瞳に月光が映っている。
「……起きていたか」
低い声。いつもの短い言葉。
頷いた。
「眠れんだろうな」
また頷いた。
沈黙が落ちた。この人との沈黙は、いつだって苦しくない。ただ静かなだけだ。夜空には星が散っていて、城壁の向こうから風が吹いている。
ゼクスが何かを言おうとした。口を開いて、閉じた。もう一度開いて、また閉じた。
不器用な人だ。
「俺は」
三度目に、声が出た。
「お前の血がどうとか、そういうことはわからん。グレゴールのように古い書物を読む力もない」
拳を握った。開いた。
「だが、お前の母親が声を奪われていたということは、わかる。お前も。その前も」
その目が、まっすぐに私を見た。
「許せん」
短い言葉だった。でも、その二文字に、この人の全部が詰まっていた。弱きを助け、強きをくじけ。父から叩き込まれた家訓を、この人は本気で生きている。
紙を出した。月明かりの下で、炭の棒を握る。
手が震えていた。怒りではない。この人の前で、初めて自分の意志を書こうとしていることへの、緊張だった。
『私 もう 黙ってるだけじゃ いや』
ゼクスが紙を受け取った。月光の下で読み、顔を上げた。
その時、蒼い瞳がわずかに揺れた。
何を見たのだろう。私の目に、何か変わったものが映っていたのだろうか。
「……いい目だ」
それだけ言って、ゼクスは夜空を見上げた。
その横顔を見ていた。何も言わずに。言えずに。でもそれでよかった。
この人がいる。玲子がいる。グレゴールがいる。
一人じゃない。もう、一人じゃない。
天幕に戻ろうとした時、別の方角から足音がした。
トビアスだった。見張りの時間帯でもないのに、剣を腰に差して、私の天幕の方に歩いてきていた。ゼクスを見て足を止める。気まずそうに頭を掻いた。
「……あ、すみません。その、なんか、眠れなくて。なんとなくこっちに」
ゼクスが黙ってトビアスを見た。数秒。それから、短く言った。
「……お前もか」
トビアスは首を傾げた。「お前も」の意味がわかっていない顔だった。
ゼクスの視線が、一瞬だけ指揮室の方角に向いた。グレゴールが言った言葉を、思い出しているのかもしれない。
守護の血族。
巫女王の傍らに常に在った一族。
「……戻って寝ろ」
ゼクスがトビアスに言った。それだけだった。
トビアスは「はい」と答えて踵を返した。数歩歩いて、振り向いた。私を見て、何か言いたそうにして、やめて、また歩き出した。
その背中が夜闇に消えるまで、ゼクスは目を離さなかった。
第27話をお読みいただきありがとうございます。
この話は、イリスが初めて「怒る」話です。
帰還命令を突きつけられた夜、彼女の中で何かが変わりました。ヘルマンに蔑まれた時の悔しさでも、アデスに傷ついた時の悲しみでもない。もっと深い場所から来る、冷たくて硬い怒り。
母も、祖母も、千年分の女たちも、奪われたことすら知らなかった。だからイリスが代わりに怒る。その決意が「私、怒ってる」の五文字に詰まっています。玲子が「ずっと待ってた」と言った理由を、受け取っていただけたなら嬉しいです。
ゼクスが夜中に天幕の外に立っていた場面。何も言わずに「許せん」の二文字だけで帰した理由は、この人が口より先に行動する人間だからです。
そしてトビアスが夜中に引き寄せられるように現れた場面、さらっと書きましたが、ここは伏線です。お気づきの方はお気づきかもしれません。




