第3部 第26話「帰還命令」
あの日から、何かが変わった。
声は、また出なくなっていた。
公開治療の場で絞り出した「助けて」の一言。あれきり、喉は元の沈黙に戻った。夜ごとに試してみる。口を開けて、息を吐いて、音にしようとして。でも何も出ない。玲子は「亀裂は確実に広がってる」と言うけれど、体はまだ、声を許してくれない。
変わったのは、周りだった。
「女先生、今日も頼みます」
天幕に入ると、負傷兵が頭を下げた。女先生。いつからか、兵士たちが私をそう呼ぶようになっていた。
あの日、公開治療の場に居合わせた兵士は歓喜した。声が出ない少女が、王家の使者の目の前で重傷兵を救い、最後に一言だけ声を発したこと。その声に、天幕全体が震えたこと。
兵士たちの目が変わった。怯えでも好奇でもない。信頼だった。
包帯を巻く。傷口を確認する。煮沸した布で拭き、薬草を塗る。この手順はもう、玲子に教わらなくてもできる。体が覚えている。
──でも、この光は別だった。
指先が、淡く青白い光を帯びていた。
薬草を塗った箇所の腫れが、目に見えて引いていく。兵士が目を丸くした。「女先生、手が──」
とっさに手を引いた。光が消える。
『イリス、また光った。しかも今回、意識してないでしょう?』
玲子の声が、心の中で響く。
『……うん。勝手に、出る。最近ずっと』
怖かった。自分の体の中で、知らない力が膨らんでいく。制御できない。いつ光るかわからない。何が起きているのかもわからない。
『頻度が上がってる。公開治療の前は、集中した時だけだった。今は処置のたびに漏れてる』
玲子の観察は冷静だった。看護師の目で、私の体の変化を記録し続けている。
『それと、光った後の消耗も軽くなってる。前は脱力で動けなくなったけど、今は平気でしょう? 体が、順応し始めてるんだと思う』
順応。何に。
それがわからないから、怖い。
*
午後、別の天幕で矢傷の兵士を処置していた時、外が騒がしくなった。
馬蹄の音。複数。城門の方角から、鎧の擦れる重い音が近づいてくる。
天幕の隙間から覗くと、王都の紋章旗を掲げた騎馬が三騎、城塞の広場に入ってきた。先頭の騎馬には、巻物を携えた文官が乗っている。
前に見た顔だった。公開治療の場で面目を失い、王都に帰った文官。あの男が、また来た。
今度は一人ではなかった。護衛の騎士が武装している。
『嫌な予感しかしない』
玲子の声が低い。私も同じだった。
*
指揮室に呼ばれた時、ゼクスとグレゴールはすでに文官と向き合っていた。
文官が巻物を広げる。その手が、かすかに震えていた。恐怖ではない。高揚だった。前回の屈辱を晴らす機会を得た者の、押し殺した昂ぶり。
「王命を伝達する」
声が指揮室に響いた。
「城塞都市ルーゲンの守備は、王立第二騎士団に移管する。王立第三騎士団は速やかに王都へ帰還し、再編の命を待て」
沈黙が落ちた。
軍事的には、筋が通っている。攻城戦を専門とする第三騎士団が、陥落後の守備に張りつく理由はない。守りの専門家である第二騎士団に交代するのは合理的な判断だ。
だから、逆らえない。
『……これ、前回と違う。前回は「イリスを引き渡せ」だった。今回はそうじゃない。騎士団ごと動かしてる』
玲子の分析が速い。私にもわかった。
私一人を連れ去ろうとして失敗したから、今度は私を守っている人たちごと引き剥がしに来た。
ゼクスの横顔を見た。眉間に深い皺が刻まれている。拳が白くなるほど握られているのに、声は低く、静かだった。
「帰還の期日は」
「第二騎士団の到着は十日後。引き継ぎを経て、二十日以内の出立を命ずる」
二十日。
「なお、国王陛下ご自身がルーゲンにお越しになる。オルデア公国との講和条約の締結のためだ。第三騎士団の帰還は、陛下ご到着の前に完了させよ」
空気が変わった。
グレゴールの目が、一瞬だけ鋭くなった。すぐに元の老練な寡黙さに戻ったけれど、私はその一瞬を見逃さなかった。
王が、来る。
この前線に。直接。
「承知した。伝達ご苦労だった」
グレゴールが淡々と応じた。文官は巻物を巻き直し、今度は勝ち誇った顔を隠しもせずに退出した。
足音が遠ざかる。
指揮室に残されたのは三人だった。ゼクスが口を開く前に、グレゴールが片手を上げた。
「ゼクス。怒るのは後にしろ」
「……怒ってはいない」
「嘘をつくな。拳から血が滲んでいる」
ゼクスが自分の手を見た。握りしめすぎて、爪が掌に食い込んでいた。黙って手を開く。
グレゴールが窓に歩み寄った。ルーゲンの城壁の向こうに、山地の稜線が夕日に赤く染まっている。
「王が直接来る。講和条約の締結に、王自らが。外務を司る者に任せず」
独り言のように呟いた。
「二十日以内に第三を追い出し、第二に入れ替える。第二のヴォルフは忠実な男だ。良い騎士だが、王命に疑いを持つ男ではない」
ゼクスが低く言った。
「俺たちがいなくなった後、この娘がどうなる」
グレゴールは答えなかった。代わりに、振り向いた。
老いた目が、私を見た。それからゼクスを見た。長い沈黙が落ちた。
「……もう避けては通れんな」
独り言のような声だった。
グレゴールが机の引き出しから、古い羊皮紙の写しと走り書きの束を取り出した。あの夜──巫女王の伝説を語った夜から、ずっと調べていたのだろう。紙の端が擦り切れている。何度も読み返した跡だった。
「わしもゼクスも、薄々わかっておった。お前もだろう」
私を見て、言った。
わかっていた。認めたくなかっただけだ。
天幕の影で眠り、兵士の食べ残しで腹を満たし、誰もが嫌がる汚れ仕事を黙ってこなしてきた少女が、千年前に国を導いた巫女王の血を継ぐ者だなんて。そんなことがあるはずがないと、思いたかった。
グレゴールもそうだったのだろう。だから「分かったかもしれん」ではなく、「避けては通れん」と言ったのだ。認めたいのではない。認めなければ、もう対処ができない。
「古文書の記述。見たこともない手からの光。代々封じられてきた声。百年前に一人だけ逃がされた女児の記録。そして──王までが動き始めた」
グレゴールが紙を一枚ずつ、机の上に並べていく。
「一つひとつなら偶然で片づけられる。だが全てが重なれば、これはもう、疑いではない」
ゼクスが黙っていた。蒼い瞳が紙の上を追っている。反論しないということは、同じ結論に辿り着いていたということだ。
私は何も書けなかった。紙も炭の棒も手元にあったのに、何を書けばいいのかわからなかった。
巫女王の末裔。
あの伝説が、私のことだと。
母の顔が浮かんだ。声のない口で、紙の上だけで私に語りかけていた母。その母の母も。そのまた母も。みんな、声を──
奪われていた。体質ではなく。呪いで。
体が震え始めた。膝が折れそうになる。
大きな手が、肩を掴んだ。
ゼクスだった。何も言わない。ただ、倒れないように支えている。
「……誰がこんなことを」
ゼクスの声は低かった。静かだった。でも、その静かさの奥に、氷のような怒りがあった。
グレゴールは答えなかった。答えられなかったのか、答える時ではないと判断したのか。代わりに、もう一枚の紙を取り出した。
「古文書にはもうひとつ記述がある」
かすれた文字を指でなぞる。
「巫女王の傍らには常に守護の血族が在った、と。巫女の力を守り、支え、命に代えても巫女を守る一族。巫女王の血が残っているなら──守護の血族も、どこかに生きている可能性がある」
守護の血族。
『……イリス』
玲子の声が、心の中で静かに震えた。何かに気づいたような声だった。でも、それが何かは言わなかった。
「二十日だ」
グレゴールが紙を束ね直した。
「二十日で、守護の血族を見つけなければならん。この娘を、王の手が届く前に守れる者を」
第26話「帰還命令」をお読みいただきありがとうございます。
ここから第3部に入ります。
第25話のラストで、とうとう敵が動きました。ただし「イリスを直接奪う」ではなく、「守っている人たちごと引き剥がす」という方法で。王命という形を取られてしまうと、ゼクスもグレゴールも正面から抗えない。この詰め方が今回の肝だと思いながら書きました。
声が出なくなったこと、でも手の光は制御を失いながら広がっていること。呪いと力が同時に動いている感覚を、今回少し意識して書いています。
そして「守護の血族」。玲子が何かに気づいた瞬間、あの声のトーンを書いたのは完全に意図的です。察した方は察していると思います。
二十日間のカウントダウン、始まります。




