第25話「たった一言」
朝が来た。
天幕を出ると、入口の脇にゼクスが座っていた。大剣を膝に立てかけ、背を柱に預けて。目の下に影がある。一晩中、ここにいたのだ。
「起きたか」
低い声。いつもと同じ。でも、蒼い瞳がこちらを見た一瞬、何かを確認するような光があった。無事か、と。
頷いた。嘘だった。体の奥の冷たさは消えていない。昨夜から、ずっと。
『……イリス。正直に言って。手の感覚、戻ってる?』
玲子の問いに、首を横に振る。心の中で。
温かさがない。いつもなら指先にじわりと灯る、助けたいと思った時の熱。あれが、どこにも見つからない。
でも、行くしかない。
*
広場に騎士団の全隊が集まっていた。
ルーゲンの城壁内、石畳の広場。攻城戦で半壊した建物の影に、数百の兵士が並んでいる。鎧の上から外套を羽織った者、包帯を巻いたまま列に加わった者。最前列に、グレゴールが椅子に腰を下ろしている。
そしてその隣に──文官。灰色の長衣。薄い笑み。横に立会人が二人。書記らしき男が羊皮紙を広げて控えている。
広場の中央に、台が置かれていた。その上に、清潔な布、煮沸した水、薬草、針と糸。私が昨夜から自分で管理してきた道具一式。
『大丈夫。道具には手を加えられていない。全部確認した』
玲子の声を頼りに、台の前に立った。
数百の視線が、一斉にこちらを向く。
足が震えた。
グレゴールが立ち上がった。
「始めよ」
重い一言で、広場が静まり返った。
最初は、ルッツだった。
「女先生に命を救われた」
ルッツが自分で鎧の留め具を外し、腹の傷跡を見せた。まだ赤い線が残っているが、塞がっている。あの日、ヘルマンが「楽にしてやれ」と言った傷。
兵士たちがざわめいた。ルッツの傷は全員が知っていた。腹を割かれて、臓腑が見えていた。助かるはずがなかった。
「女先生の手が光って──温かくて──気づいたら、痛みが消えていた」
文官の目が細くなった。唇が動く。何かを書記に囁いている。
次に、回復途上の兵士四人の処置を行った。
包帯を外す。傷口を確認する。煮沸した水で洗浄する。清潔な布で覆い直す。薬草を選別し、塗布する。
手順は完璧だった。玲子が隣で的確に指示を出し、私の手が迷いなく動く。兵士たちが、処置の一つひとつに声を上げた。
「水で洗うのか?」「あの布、煮てあるのか」「はちみつは使わないんだな」
四人の兵士の傷口は、どれも化膿していなかった。ヘルマンの処置を受けた兵士の多くが膿に苦しんでいた事実を、全員が知っている。
グレゴールが頷いた。
ここまでは、うまくいっている。
だが──。
「光は出ないのか」
文官の声が、広場に響いた。
静かな声だった。だが確実に、全員に聞こえた。
「ルッツ殿の証言では、手から光が出て傷が塞がったとのことでしたが。それが今日、この場で再現できなければ──証言は証言でしかない」
ざわめきが広がる。
兵士たちの目が変わった。期待。疑念。好奇。数百の感情が、一斉にこちらに向かってくる。
光を。
出さなければ。
手を見た。指先に意識を集中する。助けたい。この人たちを守りたい。いつもの、あの気持ちを──。
冷たい。
指先が、凍りついたように冷たい。昨夜から居座り続けている、あの冷たさ。温かさが湧き上がる場所を、何かが蓋をしている。力が出口を塞がれて、体の奥で押し潰されている。
『イリス、無理しないで──』
無理しなければ、連れて行かれる。ここにいられなくなる。ゼクスの傍から、引き剥がされる。
もっと強く。もっと深く。
胸の奥に手を伸ばす。凍りついた壁の向こうに、確かにあるはずの温もりを探す。
壁が、押し返してきた。
体の中で、何かが軋む音がした。あの音だ。昨夜と同じ、骨の中を走る冷たい軋み。喉が締まる。視界が歪む。
膝から、力が抜けた。
石畳に倒れ込む。意識はある。でも体が動かない。冷たさが全身を支配している。指一本、持ち上がらない。
ざわめきが悲鳴に変わった。
「女先生!」「おい、倒れたぞ!」
兵士たちが駆け寄ろうとする。文官の声がそれを遮った。
「やはり、証明はできなかったようですな。残念ですが──」
手が、掴まれた。
大きな手。硬い指。傷だらけの掌。
ゼクスだった。
いつの間に前に出ていたのか。片膝をついて、私の手を握っている。蒼い瞳が、真上からこちらを見下ろしている。
「聞こえるか」
聞こえる。でも体が動かない。口が開かない。冷たい。
「──イリス」
名前を呼ばれた。あの低い声で。「お前」ではなく、「イリス」と。
指に力が戻った。ほんの少しだけ。ゼクスの手を握り返す。
冷たい壁の向こうで、何かが脈打った。
『イリス! 声を出して! 今なら──今なら隙間がある!』
玲子が叫んでいる。
声。声を出す。この体では一度も出したことのない、声を。
喉が震えた。冷たさが抵抗する。千年分の重さで押さえつけてくる。
でも、ゼクスの手が温かい。
その温もりが、ほんのわずかに、壁を溶かした。
唇が開く。空気が喉を通る。声帯が、生まれて初めて震える。
「──た、す……け、て……」
掠れた音だった。ほとんど息に混じって消えそうな、途切れ途切れの音。声と呼べるかどうかもわからない、小さな小さな振動。
でも、聞こえた。
ゼクスの瞳が、見開かれた。
広場が、凍りついた。数百の兵士が、息を忘れた。
声が出ないはずの少女の口から、声が出た。
「……助け、て」
もう一度。今度は少しだけ、少しだけはっきりと。
ゼクスの手が震えていた。あの大きな、剣を片手で振るう手が。
石畳を蹴る音が響いた。トビアスだった。隊列を飛び出し、まっすぐこちらに走ってくる。文官の護衛騎兵が動こうとしたのを、体で塞いだ。
「触るな! この子に触るな!」
なぜこんなにも必死になるのか、たぶん本人にもわかっていない。でも退かなかった。
グレゴールが立ち上がった。重厚な声が、広場を制した。
「見たであろう。この娘は騎士団に不可欠な存在だ。身柄の移送は認めん」
文官の顔から、薄い笑みが消えていた。
*
王都。
薄暗い部屋の中で、一通の早馬の報告書が開かれていた。
密偵からの報告。走り書きの文字。日付は三日前。
「──声が出た、だと」
玉座に近い場所に座る男が、報告書を握り潰した。
「呪いが弱まっている。ありえん。千年、誰一人として──」
沈黙。
握り潰された紙が、床に落ちた。
「……あの娘を、連れてこい。手段は問わん」




