最終話「声の届く場所」
朝靄の中を、鶏が鳴いている。
ルーベン村の朝は静かだ。井戸端でマルタが水を汲む音。薪を割る音。石積みの家の煙突から、朝餉の煙が昇っていく。
診療所の戸を開けて、朝の空気を入れる。三年前に建てた時、玲子と一緒に考えた造りだ。入口に段差がない。怪我人が担架ごと入れるように。壁は漆喰で塗り固めて、毎朝布で拭く。寝台は三つ、等間隔に並べて、それぞれにカーテン代わりの布を吊るした。道具は使うたびに煮沸する。薬草は種類ごとに棚に分けて、名札を貼ってある。
『前世の救命センターには負けるけどね』
玲子が笑う。
『でも、この世界では一番清潔な場所だと思うよ』
そうかもしれない。最初は村の人に変な目で見られた。なぜ診察室内は履物を履き替えるのか。なぜ包帯を煮るのか。なぜ手を洗うのか。でも、ここで治療を受けた患者は化膿しない。それが三年で広まった。
今では山を越えた隣の町からも患者が来る。そして、学びに来る者もいる。
「女先生、おはようございます」
リーゼが入ってきた。隣町の薬師の娘で、半年前から住み込みで手伝っている。包帯の巻き方、傷口の洗い方、薬草の煎じ方。私が玲子から学んだことを、この子に伝えている。
「あとの二人は?」
「エーリッヒは薬草を摘みに裏山へ。カイは──」
窓の外を指さした。隣の敷地から、木剣の打ち合う音が聞こえている。
ゼクスの道場だ。
道場といっても、屋根と柱だけの素朴な造り。でもそこで教えているのは、ヴァイセン王国最強と呼ばれた男だ。近隣の村から、剣を学びたい若者が集まってくる。カイもその一人で、午前は道場、午後は診療所という生活をしている。人を斬る剣ではなく、人を守る剣を教えている、とゼクスは言った。父の家訓を、次の世代に渡しているのだ。
窓から覗くと、ゼクスが木剣を構えた若者の姿勢を直していた。大きな手で肩の位置を正し、足の幅を調整する。戦場で大剣を振るっていた手が、今は子供たちの体の使い方を教えている。
朝日を浴びて、銀灰の髪が光っている。眉間の皺はまだある。でも目尻に、前にはなかった線が増えた。笑い皺だ。少しずつ、増えている。
「ゼクス、朝ごはんですよ」
窓から声をかける。
ゼクスが振り返った。木剣を下ろして、弟子たちに「続けろ」と短く言って、こちらに歩いてくる。
午前中に三人の患者が来た。
一人目は転んで手首を痛めた老人。骨は折れていない。湿布を巻いて、三日後にまた来るよう伝えた。
二人目は熱を出した子供。リーゼに脈の取り方を教えながら、一緒に診た。薬草を煎じて飲ませると、昼には熱が引いた。
三人目は、馬から落ちて肩を脱臼した旅の商人。
これは、一人ではきつい。
「ゼクス、押さえて。力を抜かせるだけでいい」
ゼクスが肩を固定する。手首を取り、ゆっくりと外へ回した。抵抗が強い。
「……息を吐いて」
男が歯を食いしばりながら息を吐く。その瞬間、わずかに力が抜ける。動きを止めず、一定の速さで回旋を続けた。
──コクン、と小さな手応え。
前線を思い出した。あの頃も、こうだった。私が処置して、ゼクスが支える。声は出なかったけれど、このふたりの形はあの時からずっと同じだ。
商人が痛みに顔を歪めながら言った。
「あんた、元軍人だろう。その体つき」
「昔の話だ」
「いい嫁さんだな」
ゼクスの耳が赤くなった。三年経っても、この人の耳は正直だ。
昼過ぎに、珍しい来客があった。
金髪の女性が、質素な馬車から降りてきた。付き人は一人だけ。大勢の侍女を連れていた頃とは違う。
アデス・メルヴィスだった。
診療所の中をゆっくりと見回していた。清潔な壁。整然と並んだ寝台。棚の薬草。リーゼが包帯を畳んでいる手元。窓辺に置いた青い花。そして庭の向こう、道場で木剣を振るうゼクスの後ろ姿。
「あなたのような方が」
アデスが小さく呟いた。
「羨ましいですわ」
静かな声だった。今度は、声が出ないことへの言葉ではなかった。イリスが持っているもの──この場所と、この暮らしと、多くの人に囲まれて慕われている、心からの羨望だった。
薬草の束をひとつ土産に渡すと、アデスは少しだけ笑って、馬車に乗って帰っていった。
夕方、最後の患者を送り出して、診療所の戸を閉めた。
リーゼが棚を拭いている。明日の準備をしている。この子が一人で診られるようになるまで、あと一年くらいだろうか。そうしたら、もう一つ、隣の町にも診療所を作れるかもしれない。
『壮大な計画だね』
玲子の声。
『玲子が救命センターで救った人の数には追いつけないけど』
『追いつかなくていいよ。あなたはあなたのやり方で。──ていうか私は看護師で、救命センターで救ったのは医者の方だから』
『相変わらず謙虚ね』
『どの口が言うの。巫女王の末裔に言われたくないんだけど』
笑い合った。心の中で、二人で。
『玲子は、このままずっといてくれるの?』
少しだけ、間があった。
『わかんない。でも、今はここにいるよ。それでいいでしょ?』
『うん。それでいい』
表で、トビアスの声がした。息子を肩車して、帰るところだ。茶髪の坊主が手を振っている。手を振り返した。
グレゴールからの手紙が、今朝届いていたのを思い出した。騎士団長の職を退いて、王立図書館の顧問になったらしい。巫女王の伝説を正しい形で後世に残す仕事をしていると書いてある。あの人らしい。
夕食の後、診療所の前に座った。星が出ていた。ルーベン村の星は近い。手を伸ばせば届きそうだ。
隣にゼクスが座っている。肩が触れている。何も言わない。何も言わなくていい。この人の隣で黙っていることが、声を取り戻すまでの十七年間で学んだ、一番大切なことかもしれない。信じている人との沈黙は、どんな言葉より温かい。
明日もまた、誰かが怪我をして、ここに来る。私はその手を取って、傷を診て、薬を塗って、布を巻いて、声をかける。
「お大事に」
──声にして、優しく。
最終話をお読みいただきありがとうございます。
三年後のルーベン村を選んだのは、「その後どうなったか」ではなく「どんな日常が始まったか」を書きたかったからです。王の呪術を封じた話でも、声を取り戻した話でも、プロポーズの話でもなく、朝に戸を開けて患者を迎えて夜に星を見る、その繰り返しの中にいるイリスを最後に書きたかった。
診療所の造りを細かく書いたのは、玲子がイリスに渡したものが形になっている場所として書きたかったからです。段差のない入口、煮沸した道具、棚の名札。玲子が救命センターで当然としていたことが、この世界でイリスの手を通じて根付いていく。リーゼがいて、エーリッヒがいて、カイがいる。もう一人ではないし、玲子の知識はイリスだけのものでも終わらない。
ゼクスの笑い皺が少しずつ増えている、という一行は、この物語を書いてきた中で、最も時間をかけた一行かもしれません。眉間の皺はそのままで、耳は三年経っても赤くなる。でも笑い皺だけが増えている。それだけで十分だと思いました。
アデスが一人でひっそりと来て、「羨ましいですわ」と呟いて帰る場面。声が出ないことへの言葉ではなく、この場所と暮らしへの羨望として書いたのは、アデスにもちゃんとその後があってほしかったからです。変わろうとしている人間として、短くでも書いておきたかった。
玲子との最後のやりとりは、ずっとこう書くつもりでいました。「わかんない。でも、今はここにいるよ。それでいいでしょ?」だけが、玲子の答えとして正直だと思っていたので。確約でも別れでもない。今ここにいる、それだけ。イリスが「それでいい」と返せるようになったことが、第1話からの変化の全てだと思っています。
「声のない口で紡ぎ続けた言葉を、最後だけ声で出して終わる」と決めたのは、この物語を書き始めた時からでした。
最後まで読んでいただいて、本当にありがとうございました。




