第23話「反逆の戦鬼」
一ヶ月は、もたなかった。
告白の夜から十日。陣地をルーゲン城壁内に移してから二十日目の朝に、それは来た。
角笛ではない。蹄鉄の音だ。石畳を叩く規則正しい足音。軍馬の蹄が六頭分。
医療所の窓から見えた。
正門を通過してきた騎馬の一団。先頭の騎士が掲げている旗に、紋章が描かれている。メルヴィス家のものではない。
王家の紋章だった。
『……来た』
玲子の声が硬い。
あの文官が言っていた。「上の意思は、手続きで止められるものではない」。グレゴールの軍属登録は一ヶ月を待たずに突破された。
騎馬の一団が行政庁舎の前で止まった。先頭の騎士が下馬し、巻物を掲げた。封蝋に押された紋章が、朝日を受けて光っている。
王家の封印。
国王の命令書だ。
*
指揮室に呼ばれた時、部屋の空気はすでに張り詰めていた。
王家の使者──甲冑をまとった中年の騎士が、卓の正面に立っている。背筋がまっすぐに伸びた、隙のない男だった。
その左右にグレゴールとゼクス。
そしてヘルマンが、使者の後ろに立っていた。
ヘルマンが使者の側にいる。その配置が意味することを理解するのに、数秒かかった。
使者が巻物を広げた。
「国王アルヴァン三世の名において命ずる。王立第三騎士団所属の軍属イリスを、王都に移送せよ。身柄は宮内省の管轄下に置き、然るべき調査を行うものとする」
宮内省。調査。保護ではなく、調査だ。言葉が変わっている。
「併せて、同人が行使したとされる治癒の異能について、王立学院の審問を受けさせる。これは陛下の直命であり、いかなる階級の者も拒否することはできない」
沈黙が落ちた。
グレゴールの顔に、感情は見えない。老いた目が、巻物の上の王家の封印を見つめている。
ゼクスが口を開いた。
「その命令書を見せろ」
使者が巻物を差し出した。ゼクスが受け取り、封印を確認し、文面を読んだ。時間をかけて。一行ずつ。
そして──巻物を卓の上に置いた。
「断る」
使者の顔が強張った。
「副騎士団長殿。これは国王陛下の──」
「聞こえなかったか。断ると言った」
ゼクスの声が、室内を切り裂いた。低い。静かだ。でも逆らえない圧がある。戦場で敵の前に立つ時と、同じ声。
使者の背後から、ヘルマンが声を上げた。
「ゼクス殿! 正気か! 国王陛下のご命令に逆らうのだぞ!」
ゼクスがヘルマンを見た。蒼い瞳が、冷たく光っている。
「ヘルマン。お前は使者の側に立つのか」
「立つとも! わしは国王陛下の臣下だ。命令に背くなど、騎士の道に反する。──大体、口も利けぬ小娘ひとりのために騎士団の規律を乱すとは、正気の沙汰ではないわ」
口も利けぬ小娘。
その言葉が、石の壁に反響した。
ゼクスの顎が、ゆっくりと引き締まった。怒りだ。だが声は静かだった。
「ヘルマン。お前に一つ聞く」
「何だ」
「お前が見捨てた兵士の腹の傷を塞いだのは誰だ」
ヘルマンの顔が歪んだ。ルッツのことだ。「手の施しようがない」と首を振って背を向けた、あの兵士。
「あの小娘の手が光らなければ、ルッツは死んでいた。お前の判断通りにな」
「あ、あれは──医術の範疇を超えた現象であって──」
「だから王都に引き渡すのか。お前が救えなかった命を救った者を」
ヘルマンが唇を噛んだ。顔が赤くなり、白くなり、そして──硬くなった。
「……わしは、命令に従う。それが騎士団の軍医としての務めだ」
「そうか」
ゼクスの声に、もう怒りはなかった。冷たくもなかった。ただ、終わった音がした。
ヘルマンとの関係が、今、断ち切られた。
使者が咳払いをした。
「副騎士団長殿。改めて問う。国王陛下のご命令を拒否するのか」
「拒否する」
「それは反逆に等しい行為だ。ブレンナー家にも──」
「家のことは俺が背負う。兄たちには俺から伝える」
使者の目が見開かれた。貴族の三男が、実家の名誉ごと賭けると宣言している。
部屋の中の騎士たちが動揺している。ゼクスの副官が、ゼクスの隣に立った。無言で。続いてもう一人。さらにもう一人。ゼクスの側に並ぶ者と、使者の側に移る者に、部屋が分かれていく。
騎士団が、割れた。
その時、指揮室の扉が勢いよく開いた。
トビアスだった。
息を切らしている。鎧もつけていない。一般兵が指揮室に入ること自体が規律違反だ。だがトビアスの目は、規律など見ていなかった。私だけを見ていた。
「イリスを連れて行くって本当か」
使者の前に、まっすぐ歩み出た。線の細い体。剣すら持っていない。なのに──この少年の背中に、一瞬、別の何かが見えた。
「この子は俺たちの女先生だ。この子がいなかったら、ルッツは死んでた。夜襲で怪我した連中も死んでた。あんたらの命令書に、そいつらの命より大事なことが書いてあるのか」
普段の、線が細くて控えめなトビアスではなかった。声が違う。目が違う。自分でも驚いているはずだ。なぜこんな言葉が出てくるのか、この少年自身にもわからないだろう。
『……この子、また変わった。イリスのことになると、完全に別人になる』
玲子が息を呑んでいる。
使者がトビアスを見下ろした。「兵卒風情が──」
「兵卒だろうと何だろうと、この子は渡さない」
トビアスの声は震えていた。なぜこんなにも必死になるのか、たぶん本人にもわかっていない。でも退かなかった。
ゼクスがトビアスを見た。蒼い瞳に、複雑な光がよぎった。嫉妬ではない。この少年の中に、自分と同じものを──あるいは自分とは別の種類の覚悟を認めたような目だった。
グレゴールが立ち上がった。
「使者殿。わしからも一つ」
重い声だった。五十年以上戦場に立ち続けた男の、全ての重みを乗せた声。
「この娘は、先の総攻撃で四十二名の負傷兵を処置し、数え切れぬ命を救った。王立第三騎士団がルーゲンを落とせたのは、この娘が傷兵を生かし続けたからだ」
グレゴールの目が、使者を射抜いた。
「それだけではない。この前線では、副騎士団長ゼクスがベラドンナの毒を盛られる事件が起きている。犯人はいまだ不明だ。──このような状況で、王都から身柄確保の命令が来る。使者殿、お前も狙われていることを忘れたのかと、ゼクスに言ってやりたいところだな」
使者の顔がこわばった。グレゴールの言葉は、暗にこう言っている。毒殺未遂と身柄確保の背後に、同じ意思があるのではないか、と。
グレゴールがゼクスの隣に歩み寄った。
「騎士団長として、軍属の移送を認めない。これはわしの決定だ。異議があるなら、王都で軍事法廷を開け」
使者の顔が蒼白になった。騎士団長と副騎士団長が揃って命令を拒否した。これは前例のない事態だ。
「……わかった。本国に持ち帰る。だが覚えておけ。これは、終わりではない」
使者が巻物を巻き直し、踵を返した。ヘルマンがその後に続いた。一度だけ振り向き、天幕の中を──私を見た。
その目に何があったのか、読み取れなかった。怒りか。悔しさか。あるいは──安堵か。
足音が遠ざかっていく。
*
指揮室に残ったのは、ゼクスとグレゴールと、ゼクスの側に立った騎士たちと、トビアスに私だけだった。
ゼクスの副官が口を開いた。
「副団長。これから、どうなりますか」
ゼクスは答えなかった。グレゴールを見た。
グレゴールが窓の外を見ていた。ルーゲンの壊れた街並みの向こうに、山地の稜線が見えている。
「別の道がある」
低い声だった。
「使者は持ち帰ると言った。次に来る時は、軍ではなく政治で来る。その前に──」
グレゴールが振り向いた。老いた目に、静かな炎がある。
「この娘の正体を、こちらから明らかにする。巫女王の末裔であることを証明し、公にする。隠すのではなく、晒す」
ゼクスの眉が跳ねた。
「晒せば、狙われる」
「隠しても狙われている。ならば、晒して味方を作る方が賢い」
沈黙。
「兵士たちはすでにこの娘を『女先生』と呼び、『聖女』と噂している。その信頼を使う。この娘が何者であるかを、騎士団の兵士たち全員の前で証明するのだ」
『……公開治療だ』
玲子の声が低い。
『イリスの力を、みんなの前で見せる。隠すんじゃなくて、証明する。そうすれば「連れて行くな」という声が、騎士団の中から上がる。政治に対抗するには、数の力がいる』
グレゴールが頷いた。まるで玲子の声が聞こえたかのように。
「時間がない。準備に入るぞ」
ゼクスが私を見た。蒼い瞳が問うている。やれるか、と。
紙に書いた。
──やる
一文字。
ゼクスの目が、あの夜と同じように──ほんの一瞬だけ、温かくなった。




