第22話「告白」
グレゴールの部屋を出た後、ゼクスは何も言わなかった。
石畳の廊下を並んで歩く。
ゼクスの歩幅は大きい。
いつもなら置いていかれるのに、今日は歩調を合わせてくれている。
無言のまま。
行き先は、医療所ではなかった。
行政庁舎の屋上。
石造りの見張り台に出ると、夜風が頬を撫でた。
ルーゲンの街が眼下に広がっている。
崩れた城壁。
瓦礫の散らばる大通り。その向こうに、星を映す暗い山地の稜線。
ゼクスが欄干に背を預けた。
大剣を壁に立てかけ、腕を組む。
星明かりの中で、銀灰の髪が風に揺れている。
「グレゴールの話を聞いて、何を考えている」
静かな問いだった。
命令でも尋問でもない。
ただ、聞いている。
紙を出した。
炭筆を握る。
──わからない こわい
短い二語。
でも嘘はない。
ゼクスが読んだ。蒼い瞳が、紙から私の顔に移った。
「何が怖い」
──自分が何者かわからないのがこわい
書いた手が震えた。
巫女王の末裔かもしれない。
千年前の力を封じられた血筋かもしれない。
百年前に粛清された一族の生き残りかもしれない。
そのどれも、昨日までの私にはなかったものだ。
声が出ない下働きの少女。
それだけだった私が、突然、千年の歴史の末端に立たされている。
ゼクスが腕を解いた。
欄干から背を離し、一歩近づいた。
「聞け」
低い声。
でも硬くない。
「最初に気になったのは、お前の動きだった」
え。
「錯乱した兵士の剣を避けた時──あの動きは、下働きの小娘のそれではなかった。何者かと思った」
あの日。初めて出会った日。
玲子の反射で剣を避けた、あの一瞬。
「次に気になったのは、お前の知識だ。
毒を見抜き、傷を縫い、ヘルマンが見捨てた兵士を助けた。
どこで学んだのかわからん。
聞いても答えられない。
だが確かに、お前の手は人を救っていた」
ゼクスの声が、少しだけ柔らかくなった。
「そして今は」
ゼクスの声が、ほんの一瞬、途切れた。
この人が言葉に詰まるのを、初めて見た。
戦場で命令を叫ぶ時も、上層部と対立する時も、一度も言葉に詰まったことのない男が。
蒼い瞳が、まっすぐに私を見た。
逸らさない。
逃げない。
覚悟を決めた目だった。
「お前自身が気になる」
心臓が止まった。
「声が出なくても構わん。
出生がわからなくても構わん。
巫女王の末裔だろうと、千年の血統だろうと、手が光ろうと──関係ない」
ゼクスが一歩、近づいた。
星明かりの中で、蒼い瞳が揺れている。
揺れているのだ。
この鉄のような男の目が。
「お前が何者でも関係ない。俺はお前を守る」
風が止んだ。
星が瞬いている。
世界が黙っている。
この人は今、何を言ったのだろう。
『イリス。これ、告白だよ』
玲子の声が震えている。
告白。
この不器用な男の、これが告白なのだ。
花も指輪もない。甘い言葉もない。
ただ「関係ない」と「守る」と。
それだけ。
でもそれが、この人の全てだった。
言葉が足りない人なのだ。
感情に名前をつけられない人なのだ。
だから「好きだ」とは言えない。代わりに「守る」と言う。「
気になる」と言う。
それが、ゼクス・ブレンナーという男の精一杯。
涙が溢れた。
声を出したい。
今だけは、本当に、声を出したい。
「ありがとう」と言いたい。「嬉しい」と言いたい。
「私もあなたのことが」と──
唇が動いた。
声は出ない。
いつも通り。
喉は震えるだけで、何の音にもならない。
でも唇が形を作った。
──ありがとう。
ゼクスの瞳が、私の唇に留まった。「……ありがとう、か」
読めた。
この人には、読めるのだ。
声がなくても。
音がなくても。
「感謝されたいわけではない」
ぶっきらぼうな声。
でもその目は──笑っていないのに、温かかった。
冷たいだけだと思っていたあの目に、灯火のような色が浮かんでいる。
もう一度、唇が動いた。
今度は別の言葉。
ゼクスの目が、少しだけ見開かれた。
読めたのだろう。読めてしまったのだろう。
何と言ったかは、書かない。
紙にも書かない。声にもならなかった言葉。
でも確かに唇が形作った、「ありがとう」。
ゼクスは何も言わなかった。
ただ、大きな手が伸びてきて──今度は止めなかった。
あの日のように途中で引っ込めたりしなかった。
指先の感触が伝わってくる。
イリスの頬を通して。でもこれは私の涙じゃない。私の頬じゃない。
荒い指。
傷だらけの指。
剣を握るための指が、涙を拭うために使われている。
一滴だけ拭って、手を引いた。
荒い指の感触が、頬に残っている。
温かい。
この人の手はいつも温かい。
剣を振るう手も、肩に置く手も、涙を拭う手も。
この手に守られている。
でも──守られるだけでいたくない。
いつか、この手を握り返したい。
声で名前を呼びたい。
ゼクス、と。ゼクス様ではなく、ゼクス、と。
ふと、階下に灯りが動いた。
行政庁舎の窓を、蝋燭の明かりが横切っていく。
文官の部屋だ。あの男は、まだ起きている。
「……戻るぞ。体が冷える」
声が掠れていた。
この人も、動揺している。
鉄のような男が、指先が触れただけで声が掠れている。
背を向けて歩き出すゼクスの後ろ姿。
銀灰の髪。広い肩。欄干の向こうに星が落ちていく。
その背中に向かって、もう一度だけ唇が動いた。
今度は、ゼクスには見えていない。
でもいい。いつか声になった時に、もう一度言うから。
『──イリス』
玲子の声がした。
震えていた。泣いていた。
頭の中で、声を上げて泣いていた。
『よかったね。よかったね、イリス。──ごめん、私が泣いてどうすんの。でも、よかった。本当に、よかった……』
泣いているのは私だけじゃなかった。
この体の中にいるもう一人の女も、一緒に泣いていた。
星空の下で、声のない二人が、声を上げて泣いていた。
お読みいただきありがとうございます。
この人の告白に花も指輪もありません。
「関係ない」と「守る」だけ。
それがこの人の全部です。
ここから先、穏やかではいられなくなります。
二人の時間を、もう少しだけ覚えていてください。
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