第21話「巫女王の伝説」
グレゴールの部屋は、ルーゲンの行政庁舎の一室だった。
石の壁に囲まれた狭い部屋。卓の上に、古い書物と巻物が広げられている。
羊皮紙の端が茶色く変色している。
何百年も前のものだ。
ゼクスが私を連れてきた。
グレゴールは反対しなかった。
むしろ私の顔を見て、小さく頷いた。「本人が聞くべきだな」と。
三人が卓を囲む。
灯火が揺れて、古い文字の上に影を落としている。
グレゴールが口を開いた。
「千年以上前──この大陸に、声で国を治めた一族がいた」
声で。
「言霊と呼ばれる力だ。人の心に直接語りかけ、導き、束ねる。その声を持つ者は女にしか生まれず、一族の長は代々女が務めた。人々はその長を巫女王と呼んだ」
グレゴールの指が、羊皮紙の一節をなぞった。
古い文字で書かれた一行。
「ここにこう記されている。──『巫女の声は剣よりも強く、城壁よりも堅い。なぜならば、声は心を動かし、心は人を動かすからなり』」
声が、剣より強い。
『……声で人の心を動かす力。それが言霊』
「言霊には複数の側面がある。人の心を鎮め、勇気を与え、傷ついた者を癒す力。そして──神託を降ろし、精霊と交わる力。巫女王はこの力で民を導き、争いを鎮め、病を癒した。声ひとつで国を治めたのだ。巫女王の傍には常に守護者がいたという記述もある」
グレゴールが一枚の絵図を指した。
色褪せた顔料で描かれた女の姿。
水色の髪。紅い瞳。
心臓が止まるかと思った。
私と、同じだ。
『イリス……この絵、あなたと……』
玲子も気づいている。
グレゴールの目が、一瞬だけ私の髪と瞳に留まった。
何も言わなかった。
「だが」グレゴールの声が沈んだ。
「千年前、巫女王の一族は滅びた。いや──滅ぼされた、というべきか。別の勢力が台頭し、巫女王の力に対抗する術を持って、これを打倒した」
「対抗する術とは」
ゼクスが問うた。
「詳細は記されていない。ただ──巫女の力の源は声だ。その声を封じる方法を持っていた、とだけある」
声を、封じる。
あの夜、天幕越しに聞いた言葉が蘇った。
「声を封じられた女の血筋」
グレゴールは、あの時すでにここに辿り着きかけていたのだ。
「以後、巫女王の一族は歴史の表舞台から消えた。公式には滅亡したとされている。特に百年前、王家が──」
グレゴールの言葉が、そこで止まった。
ゼクスの瞳が鋭くなった。
「王家が、何だ」
「……百年前に、残っていた巫女の血統が粛清された、という記録がある。表向きは謀反を理由に。だがこの文献には別の記述がある」
グレゴールが別の羊皮紙を広げた。
端が焦げている。
焼き捨てられかけた文書だ。
誰かが保存しなければ、永遠に失われていた。
その焦げた一節を、グレゴールが読み上げた。
「──『巫女の血は絶えず。ただ、封じられたのみ』」
封じられた。
滅びたのではない。
封じられた。
声を奪われ、力を封じられ、歴史から消された一族が──まだ、生きている。
『イリス』
玲子の声が震えていた。
『あなたの家系だ。代々声が出ない女ばかりが生まれる家。それは体質でも遺伝でもなかった。封じられていたんだ。千年前から。ずっと』
体が震えた。
椅子を握る手から、血の気が引いていく。
母の言葉が蘇る。
「いつか気づく時がくる」。
これだ。
母が伝えたかったのは、これだ。
自分たちの声が封じられていること。
体質などではないこと。
千年前から続く、呪いのようなもの。
母は知っていたのだ。
全てではなくても、何かを。だから文字を教えた。
声の代わりに、伝える手段を残してくれた。
あの暗い部屋で、震える手で紙に書いてくれた言葉。
「だいじょうぶ こわくない」
あれは私に言っていたのではない。
母自身に、言い聞かせていたのかもしれない。
千年の呪いの中で、それでも娘を守ろうとした母の──声なき祈り。
目頭が熱い。
でもまだ泣くな。まだ聞かなければならないことがある。
ゼクスが卓の上の文献を見つめていた。
蒼い瞳が、点を繋いでいる。
「声を封じられた血統。代々声が出ない女。百年前の粛清。ルーゲン近郊の廃村。そして──イリスの手の光」
「言霊の力は治癒をも含むと、この文献にはある」
グレゴールが低く言った。
「封じられた力が、わずかに漏れている。そう考えれば、あの光の説明がつく」
沈黙が落ちた。
「ただし、この封印には厄介な性質がある。力が表に出るたびに、封印が反応して締めつけを強くするようだ。使えば使うほど、封印が強まる」
灯火の爆ぜる音だけが聞こえる。
イリスは巫女王の末裔かもしれない。
その言葉を、誰も口にしなかった。だが三人とも、同じことを考えている。
ゼクスが立ち上がった。
「グレゴール。一つ聞く」
「なんだね」
「この情報を、上に報告するか」
沈黙。
グレゴールの老いた目が、ゼクスを射抜いた。
「……報告すべきだとは思う。だがわしは、正しいことより必要なことを選ぶ老人だ」
報告しない。
グレゴールは、この情報を握りつぶす。
「ゼクス。この娘を守ると決めたなら、覚悟を持て。宮内省の書面だけでは済まなくなる。お前が守ろうとしているのは、千年の秘密に触れる存在だ」
ゼクスの背が、灯火の光の中でまっすぐに伸びていた。
「グレゴール」
低い声。
「この娘を俺が守る。何があっても」
何があっても。
その言葉の重さが、石の壁に反響した。
グレゴールが長い息を吐いた。
疲れた目の奥に、かすかな光があった。
「……そうか。ならばわしも、もう少しだけ老骨に鞭を打とう」
二人の男が、私のために覚悟を決めている。
声が出ない。
ありがとうも言えない。
でも涙が止まらなかった。
紅い瞳から零れ落ちる雫が、古い羊皮紙の上に落ちた。
千年分の沈黙が刻まれた紙の上に。
私と同じ、声なき涙が。
お読みいただきありがとうございます。
千年前の話が、ようやく表に出ました。
イリスの声が封じられた理由。
母が文字を教えてくれた理由。
全部繋がっていました。
次話、あの人の本音が聞けます。
ここまでお付き合いくださった方への、ご褒美回です。
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