第20話「母の影」
城壁の内側は、廃墟だった。
ルーゲンの住民はとうに逃げたか、オルデア側に連れ去られたかして、街には人の気配がなかった。
石造りの家々は矢と火矢の痕を残し、大通りには瓦礫が散乱している。
だがそれでも、壁の外で吹きさらしの天幕に寝るよりはましだ。
陣地の移動は二日がかりだった。
医療天幕の資材を荷車に積み、負傷兵を担架で運び、城壁の内側に仮の拠点を築く。
石造りの倉庫を医療所に改装した。
屋根がある。
壁がある。
風が入らない。
それだけで、負傷兵たちの顔に安堵が浮かんだ。
三日目の朝、荷解きの手を止めた。
城壁の上から見える景色が、目に飛び込んできたからだ。
東の方角。
ルーゲンの背後に広がる山地。
深い緑の稜線が、朝霧の中に連なっている。
『……イリス? どうしたの?』
玲子の声が遠い。
あの山の中に、私が生まれた村がある。
記憶はほとんどない。
暗い部屋。
冷たい床。
母の手。
筆談だけで繋がる、静かな会話。
それだけ。
でも今、あの山を見た瞬間──何かが、頭の奥で軋んだ。
視界が歪んだ。
『イリス!』
*
暗い部屋。
土壁の小さな家。
窓は板で塞がれている。
母の顔が見える。
水色の髪。
紅い瞳。
私と同じ。
母もまた、声が出なかった。
母の手が、紙の上を走っている。
炭で書いた、ぎこちない文字。
──だいじょうぶ こわくない
二歳か、三歳の頃だろうか。
母の膝の上で、あの文字を見ていた。
何と書いてあるかはわからなかった。
でも母が書くたびに、私の手に紙を押しつけてくれた。
読め、と。覚えろ、と。声は出ないけれど、文字があれば伝えられるから。
母から教わったのだ。
文字を。
筆談を。
声の代わりになるものを。
場面が変わる。
暗い夜。外で足音がする。
たくさんの足音。
母が私を抱きしめている。
震えている。
紙に何か書いている。
急いで。文字が乱れている。
──あなたも いつか 気づく時がくる
何に気づくのか。
その先は書かれていなかった。
あるいは、書く時間がなかったのか。
扉が蹴り破られた。
松明の明かり。
甲冑の男たちが入ってくる。
母が私を後ろに庇った。
声にならない叫びが、暗い部屋に響か──響かない。
何も聞こえない。声が出ないから。
母が引き離されていく。
その先の記憶は、ない。
*
「──リス! イリス!」
誰かの声で、意識が戻った。
城壁の上に倒れていた。
トビアスが顔を覗き込んでいる。
目が真っ赤だ。
『イリス、聞こえる? 大丈夫?』
玲子の声。頭の中で。
『全部見えた。あなたの記憶。お母さんの顔も、文字を教えてくれた手も、連れ去られた夜も。──ごめん、勝手に見ちゃった』
謝らなくていい。
玲子がいなかったら、私はあの記憶に呑まれたまま戻れなかったかもしれない。
『あのね、イリス。お母さんが書いた「いつか気づく時がくる」って──お母さん、何か知ってたんだと思う。声が出ない理由。体質じゃないって。全部じゃなくても、何かを』
「いきなり倒れたんだ。大丈夫か。ヘルマン先生を呼ぶか」
首を横に振った。
大丈夫。大丈夫じゃないけれど、ヘルマンに診てもらうものではない。
トビアスが肩を貸してくれている。
医療所に戻る途中、細い体で必死に支えてくれている。
この幼馴染は、私が傷つくたびに胸を押さえて駆けてくる。自分の怪我より先に。
医療所の前に、ゼクスが立っていた。
トビアスに支えられた私を見た瞬間、蒼い瞳が鋭くなった。
二歩でこちらに来て、トビアスから私を引き取るように──肩に手を添えた。
「……何があった」
トビアスが説明する。「城壁の上で急に倒れて──」
ゼクスの目が私を見ている。
問うている。
また、あの映像か、と。
頷いた。
ゼクスがトビアスに視線を移した。
「あとはいい」
短い言葉。
トビアスの顔に複雑な感情が走ったが、何も言わずに去っていった。
医療所の隅。
二人きり。
ゼクスが木箱に腰を下ろし、私を座らせた。
「何を見た」
紙を広げた。炭筆を握った。手がまだ震えている。
──母 見えた
ゼクスが読んだ。黙っている。続きを待っている。
──母も声出なかった 紙で話してた 文字おしえてくれた
震える字。
母の字も、こんなふうに震えていたのだろうか。
──母が書いた 「いつか気づく時がくる」って
「何に、気づくと」
首を横に振った。
わからない。
母はそこまで書けなかった。
──そのあと 兵士が来た 母が連れていかれた
ゼクスの顎が、硬く引き締まった。
「兵士が、母を」
頷いた。
長い沈黙が落ちた。
石の壁に囲まれた小さな部屋で、二人の呼吸だけが聞こえている。
ゼクスの手が伸びてきた。
震えている私の手を、紙ごと包み込んだ。
大きな手。傷だらけの手。
この手は剣を振るう手だ。
人を斬る手だ。でも今は──震える指を、温めている。
「……必ず突き止める。お前の母に何が起きたのかも」
その声は、低く、硬く、でも確かだった。
声が出たら。今この瞬間、声が出たら。
母と同じ言葉を言いたい。
だいじょうぶ、と。こわくない、と。あなたがいるから、もうこわくない、と。
唇が動いた。
声にならない。でもゼクスの蒼い瞳が、じっとその唇を見ていた。
天幕の外から、重い足音が近づいてきた。
「ゼクス」
グレゴールの声だった。低く、重い。
「来い。話がある」
ゼクスが立ち上がった。
私の手をそっと離した。
指の温もりが、名残のように掌に残った。
振り向かないまま、ゼクスが出ていく。
グレゴールの声が、もう一言だけ聞こえた。
「巫女王の伝説について、確証が取れた」
お読みいただきありがとうございます。
母の手が教えてくれた文字で、今イリスは誰かと繋がっています。
声の代わりに紙を渡してくれた人がいたから。
次話、千年前の話が出てきます。
この物語の根っこに触れる回です。
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