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千年の呪いで声が出ません。でも死んだ看護師が頭の中に転生してきたので、無言で命を救っていたら副騎士団長に溺愛されました。  作者: 花月 宙


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第19話「前線の修羅」

総攻撃の朝は、静かだった。

夜明け前。

野営地全体が張り詰めた沈黙に包まれている。

鎧を纏う音。

剣を研ぐ音。

それ以外には、風の音しかしない。

グレゴールの号令が下ったのは、空が白み始めた頃だった。

ルーゲンの城壁を落とす。

膠着を破る。

八百の精鋭を三つに割り、正面と左右から同時に攻める。

正面の先陣は──ゼクス。

医療天幕の前に立って、出陣する兵士たちを見ていた。

銀灰の髪が、隊列の先頭にある。

大剣を肩に担ぎ、振り向かない。振り向かなくていい。

『……行ったね』

玲子の声が小さい。

あの夜を思い出す。

「死なん」と言った。

「死なんから、心配するな」と。

信じる。

信じるしかない。

今できることをやる。

天幕に戻り、布を並べた。

煮沸した水を火にかけた。

針と糸を確認した。

薬草を選り分けた。

包帯を山のように積んだ。

今日は、これまでで一番多くの負傷者が来る。

    *

角笛が鳴った。

開戦を告げる長い一音。

それを最後に、戦場の音が変わった。

遠くから地鳴りのような喊声が上がる。

金属がぶつかる音。矢が空を裂く音。

怒号と悲鳴が混ざり合って、ひとつの轟音になる。

最初の負傷者が担ぎ込まれたのは、開戦から半刻も経たない頃だった。

「左腕を斬られた! 止血を!」

走った。見た。判断した。

動脈を圧迫。

縛って止血。次。

「矢が三本! 背中と太腿!」

抜くな。折って短くしろ。

出血を抑えてから抜く。

次。

「顔が──顔が焼けて──」

火矢だ。

城壁の上から火矢を浴びた。水で冷やす。清潔な布で覆う。次。

次。次。次。

医療天幕がいっぱいになった。

外にも溢れた。

地面の上に布を敷いて、そこにも並べた。

衛生兵が三人。

ヘルマンが一人。

そして私。

五人で、三十人以上の負傷者を捌いている。

ヘルマンが珍しく文句を言わなかった。

焼きごてを振るいながら、黙々と処置している。

今日だけは、この人も軍医の顔をしていた。

天幕の外で、聞き覚えのある声がした。

「イリスは! イリスは無事か!」

トビアスだった。

鎧の肩当てが半分砕け、左腕から血を流しながら、医療天幕に走り込んできた。

私を見つけた瞬間、膝が折れた。

「……よかった。無事で、よかった」

自分が怪我をしているのに、真っ先に私の安否を確認しに来る。

いつもそうだ。

この幼馴染は、私のことになると胸の奥を引っ張られるように駆け出してくる。

左腕の傷を処置しながら、頭の中で玲子が呟いた。

『この子の保護欲、やっぱり普通じゃない。本能レベルで動いてる』

トビアスの目が潤んでいた。痛みではない。安堵だ。

「女先生! こっちの人、息が──」

声に振り向く。

担架の上の兵士が痙攣している。

出血性ショック。脈が弱い。

瞳孔が開きかけている。

『イリス、この人はもう──』

わかってる。わかっている。でも。

手を握った。

冷たい手を、両手で包んだ。

声は出ない。

でも、一人では死なせない。

一人にはしない。

兵士の目が、一瞬だけ焦点を結んだ。

私を見た。

口が動いた。

「かあ、ちゃん……」

手の中で、脈が消えた。

泣いている暇はない。

次の負傷者が来る。

手を離す。

立ち上がる。

走る。

何時間経ったのかわからない。

太陽が真上を過ぎ、西に傾き始めた頃、角笛が鳴った。

短い一音。繰り返し。

勝鬨だ。

城壁の一角が崩れたらしい。

オルデア側が退却を始めている。

天幕の中で、衛生兵たちが力なく座り込んだ。

ヘルマンが壁に背を預けて目を閉じている。

私も座りたかった。

膝が笑っている。

手が震えている。服は血で赤黒く染まっている。

自分の血ではない。

全部、他の人の血だ。

『四十二人。処置した人数。うち死亡六人。……よくやったよ、イリス』

玲子の声が震えていた。

よくやった。

その言葉が、嬉しくない。

六人死んだ。

六人の手を、握れなかった。

    *

日が暮れかけた頃、負傷兵の状況確認と野営地を移動させる準備のために十数名の兵士が戻ってきた。

先頭に、銀灰の髪。

ゼクスだった。鎧が凹み、返り血に塗れている。

左の頬に浅い切り傷がある。

大剣の刃が欠けている。

それでも、自分の足で歩いている。

生きている。

膝が崩れそうになった。

立っていられたのは、天幕の柱を掴んでいたからだ。

ゼクスが隊列の先頭から外れ、こちらに歩いてきた。

兵士たちの目がある。

衛生兵たちの目がある。

ヘルマンの目がある。

構わなかった。

ゼクスが私の前に立った。

見下ろしている。

蒼い瞳が、血と汗と土埃の向こうから、私だけを見ている。

「死ななかったぞ」

声が掠れていた。

一日中、怒号を上げ続けた喉。

そして──笑った。

唇の端が上がった。

不器用な、慣れていない笑み。

戦鬼と呼ばれた男の顔に、浮かんだ笑み。

兵士たちが見ている。

何人もの目が、この瞬間を見ている。

涙が溢れた。

声は出ない。

でも顔がぐしゃぐしゃに崩れるのは止められなかった。

ゼクスの大きな手が伸びてきて、涙を拭──わなかった。

伸ばしかけた手を、途中で止めた。

人前だ。

この人なりの理性が、最後の一線で踏みとどまった。

代わりに。

「よくやった」

あの時と同じ一言。でも今日のそれは、声が違った。

背を向けて去っていくゼクスの後ろ姿を、涙の滲んだ目で見送った。

その時。

指揮天幕の陰に、灰色の長衣が見えた。

文官だった。

あの五十がらみの男が、腕を組んでこちらを見ていた。

目が笑っていない。

手元に、何かを書き留めた紙を持っている。

ゼクスが人前で笑った相手。

副騎士団長の弱点。

一ヶ月の猶予を、さらに縮める材料。

あの男は、今の全てを見ていた。

冷たいものが背筋を走った。

戦場では勝った。でも──別の戦いが、音もなく進んでいる。


お読みいただきありがとうございます。

四十二人。そのうち六人は、間に合いませんでした。

数字で書くと軽く見えますが、書いている間はずっと重かったです。

戦場では勝ちました。

でもイリスの戦いは、別のところにあります。

次話、陣地が動きます。

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