第17話「二度目の光」
偵察隊が戻ってきた時、担架の上の男は死にかけていた。
腹部を横一文字に斬られている。腸が見えている。出血が止まらない。前線に出た五人のうち、一人は城壁の下で即死。もう一人がこの男だった。
ヘルマンが一目見て首を振った。
「手の施しようがない。楽にしてやれ」
楽にする。つまり、死なせるということだ。
兵士たちが暗い顔をする。
この男には覚えがあった。
夜襲の時、矢傷の処置をした兵士だ。
あの時は肩を射貫かれていた。処置を終えた後、痛みに耐えながら「女先生、ありがとよ」と笑ってくれた人だ。
名前はルッツ。二十三歳。
故郷に婚約者がいると、隣の兵士が教えてくれた。
ヘルマンが背を向けた。
次の患者に移ろうとしている。
この人にとって、助からない患者に時間を使うのは無駄なのだ。
軍医としては正しい判断かもしれない。
でも。
『イリス……この傷は……』
玲子の声が揺れている。看護師としての冷静な判断も、ヘルマンと同じだ。開腹。腸管露出。
この世界の医療水準では、助からない。
救命センターでも、こういう場面はあった。
手を尽くしても助からない患者。でもあの頃は、最後まで手を離さなかった。
せめて、一人にしないために。
膝をついた。
男の傍らに座り、腹部の傷に手を当てた。圧迫。止血。煮沸した布で覆う。
やれることをやる。やれることしかやれない。
「女先生……」
男の目が開いた。濁った目。焦点が合っていない。でも私を見ている。
「女先生、俺……家に帰れる、かな……」
唇が動く。声にならない答え。──帰れる。
嘘だ。
嘘かもしれない。
でも、この人に「駄目です」とは言えない。
言えるはずがない。
手に力を込めた。
布の上から腹部を押さえる。
血が指の間から溢れてくる。
温かい。
この人の命が、温かい血になって流れ出ていく。
止めたい。
止めたい。
この血を止めたい。この命を繋ぎたい。
お願い。
誰に祈っているのかわからない。
でも今だけは、何でもいいから、この手に力をくれ。
『イリス──手!』
玲子の声が叫んだ。
光っていた。
手が。指先から、手のひら全体に広がる青白い光。
前に見た淡い光とは違う。
強い。
はっきりとした光が、血に濡れた布の下から溢れ出ている。
天幕の中が、青白く染まった。
衛生兵たちが息を呑む。ヘルマンが目を見開く。
光は数秒間、傷口を包んだ。
温かい。
手の中で何かが脈打っている。
この人の命の鼓動と、私の手の光が、同じリズムで震えている。
そして──消えた。
力が抜けた。視界が揺れる。
体が横に傾ぐ。誰かが支えてくれた。衛生兵の一人。
「女先生! 大丈夫ですか!」
大丈夫じゃない。体中の力が抜けて、指一本動かせない。でもそれより。
男の腹を見た。
布をめくる。衛生兵が手を添えてくれた。
傷が──閉じていた。
完全にではない。横一文字の裂傷は、浅い切り傷程度にまで縮んでいる。
出血が止まっている。
腸管は見えない。まるで、数日分の治癒が一瞬で起きたように。
「なん、だ……これは……」
ヘルマンの声が掠れていた。
天幕の中が静まり返っている。
衛生兵たちが石のように動かない。
起きたことを、誰も理解できていない。
ヘルマンが傷口に手を伸ばし、自分の目で確認した。
指先が震えている。
長年の医術の経験を持つ男が、自分の目を疑っている。
「これは……治癒魔法とでも言うのか。
馬鹿な。
そんなものは伝承の中にしか存在せん」
声が震えていた。プライドの高い男が、初めて自分の知識では説明できないものを前にしている。
男の目が、うっすらと開いた。濁りが少し晴れている。
「女先生……手が、光って……あったかかった……」
温かかった。
この人にも伝わっていたのだ。あの光の温度が。
『イリス、聞いて。何が起きたかわからないけど、あなたの力だ。あなたの中の何かが、この人を助けた』
力。
私の力。
声が出ないこの体に、別の何かがある。
声の代わりに、手が光る。言葉の代わりに、傷を閉じる。
それが何なのか、まだわからない。でも今だけは、ルッツが生きている。それだけでいい。
天幕の入口で、布の隙間から覗いている目があった。
見覚えのある顔だった。
「商人」の一人。目つきの鋭い男。
その目が、私の手と、閉じかけた傷口と、青白い光の残滓を──確かに見ていた。
目が合った。
男は、音もなく姿を消した。
『まずい。見られた』
玲子の声が硬い。
あの男は、誰に報告するのだろう。
あの令嬢か。
その父親か。
それとも──もっと上の、誰かか。
体が重い。
意識が霞む。
光を出した代償が、体にのしかかっている。
横たわりながら、閉じかけた兵士の傷口を見た。
この人は助かる。それだけが、今の自分を支えている。
声は出ない。
でもこの手は、声の代わりに命を繋いだ。
それが何を意味するのか──答えを知る者は、まだどこにもいない。
重い体を起こそうとした時、天幕の布が大きく開いた。
ゼクスだった。
息が上がっている。
走ってきたのだ。
蒼い瞳が天幕の中を一瞬で走査し、横たわる私を見つけた。
二歩で距離を詰め、膝をついた。
「何があった」
衛生兵が慌てて説明する。
「女先生の手が光って、ルッツの傷が──」
ゼクスは説明を聞いていない。
私の顔を見ている。
顔色が悪いことを、蒼い瞳が読み取っている。
大きな手が伸びてきて、額に触れた。熱を確かめるように。
「……冷たいな」
体温が下がっている。
光を出した代償だ。
ゼクスが自分の外套を脱いで、私の肩にかけた。
革と鉄の匂い。
この人の体温が残った、重い布。
「寝ていろ。誰も近づけさせん」
低い声で衛生兵たちに何か指示を出し、天幕の入口に立った。
見張るように。
外套の重さと温もりの中で、意識が遠くなっていく。
最後に見えたのは、入口に立つ銀灰の背中と、その向こうで急ぎ足に去っていく「商人」の影だった。
お読みいただきありがとうございます。花月 宙です。
光の代償が前より重くなりました。
イリスの手が何かを救うたびに、体から何かが削られていく。
その先に何があるのか、もう少しだけお付き合いください。
次話、宮内省の影が動きます。
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