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千年の呪いで声が出ません。でも死んだ看護師が頭の中に転生してきたので、無言で命を救っていたら副騎士団長に溺愛されました。  作者: 花月 宙


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第16話「善意の檻」

花の香りがした。

医療天幕の中に、あるはずのない匂い。血と薬草と汗の匂いに慣れきった鼻が、異質な甘さを嗅ぎ取った。

毛布の上に、封書が置いてあった。

淡い桃色の封筒。蝋で封がしてある。押された紋章は──メルヴィス家のものだ。花をかたどった、優美な意匠。

『……あの令嬢からだ』

玲子の声が低い。

誰がここに入れたのだろう。衛生兵たちは知らないと首を振る。夜のうちに、誰かが置いていった。あの「商人」たちか。

震える指で封を開けた。

丁寧な筆跡が、紙の上に並んでいる。一文字一文字が整って美しい。教養ある貴族の女性の手紙。私の走り書きとは、何もかもが違う。

    *

「前線のイリス様へ

お手紙差し上げるご無礼をお許しくださいませ。アデス・メルヴィスでございます。

先日の夜襲のことを伺い、たいそう心配いたしました。お声が出ないあなたが、あのような危険な場所で怯えていらっしゃるかと思うと、胸が痛みます」

『怯えてるのはあなたの想像でしょ。この子はトリアージ仕切ってたんだけど』

「お声が不自由なぶん、他の方より何倍もご苦労なさっているのですわね。そのお姿に、わたくし、心から感心いたしております」

『感心……。すごいね、上から褒めてる自覚がまるでない』

「ゼクス様との関係も、お耳に入っております。言葉がなくても伝わる関係だなんて、素敵ですわね。わたくし、少し憧れてしまいますわ」

『憧れ……? あなたが手紙すら返してもらえなかった相手との関係を、憧れ……?』

玲子の声が段々硬くなっていく。でも、わかる。この人に悪意はない。本当に、心からそう思って書いている。

それが一番、苦しい。

「けれどイリス様。前線はあなたのような方がいるべき場所ではありません。お声が出ないまま、あのような粗暴な男たちの中で過ごすのは、お体にもお心にも毒でございましょう」

粗暴な男たち。あの兵士たちのことだ。私を「女先生」と呼んでくれる人たちのことを、この人は「粗暴」と呼ぶ。

「王都にいらっしゃいませ。メルヴィス家がお守りいたします。お声のことも、きっとよいお医者様が見つかりますわ。わたくしが責任を持ってお世話いたします」

『「お世話」。ペットの世話と同じ言い方だよ、これ。この人、あなたを人として見てない。可哀想な小動物を保護するつもりでいる』

「それに、毎回お手紙をお書きになるのは大変でしょう? 王都でしたら、代わりにお話しできる侍女をお付けいたしますわ。わたくしの侍女はとても気が利きますのよ」

『あなたの声の代わりを他人にやらせるって言ってる。あなた自身の言葉なのに』

「あなたのような方を見ておりますと、わたくし、自分がいかに恵まれているか実感いたします。感謝しなければなりませんわね」

『……もう無理。この一行が一番ひどい。あなたの苦しみを自分の幸福の確認材料にしてる。しかも本人は感謝って言ってるつもりだから、怒ることすらできない』

玲子の言葉は厳しい。でも正確だった。

この手紙の一行一行に、悪意はない。差別の意識もない。ただ、自分と同じ高さにいる人間として見る視点が、最初から存在していない。

声が出ない。身分が低い。身寄りがない。だから守ってあげなければ。

その「守り」が、檻だと気づかない。

「ご返事をお待ちしておりますわ。くれぐれもお体に気をつけて。

メルヴィス家令嬢 アデス・メルヴィス」

    *

手紙を読み終えて、長い間、動けなかった。

怒りではない。悲しみでもない。もっと複雑な、名前のつかない感情が胸の中で渦巻いている。

この人に悪気はない。本当にない。それが一番辛い。悪意なら戦える。善意は──善意で包まれた檻は、外から見ると美しい鳥籠にしか見えない。

そして何より苦しいのは、この手紙の中に、かつての自分が見えることだ。

それは、数ヶ月前の自分が信じていたことと、同じだった。助けてもらうしかない。それが当たり前だと、ずっと思っていた。アデスの言葉は、数ヶ月前の自分が信じていたことと同じだ。

でも今は違う。

包帯を巻ける。傷を洗える。毒草を見分けられる。命を繋げる。声が出なくても、できることがある。ゼクスが教えてくれたのではない。玲子が教えてくれたのでもない。自分の手が、覚えたのだ。

『返事、書く?』

玲子が静かに聞いた。

紙を広げた。炭筆を握った。

何を書けばいいのだろう。この拙い文字で、あの磨き抜かれた言葉に何を返せるのだろう。

長い時間、炭筆の先が紙の上で止まっていた。

そして、書いた。

──ありがとう でも ここにいたい

それだけ。

この人の長い手紙に、これだけで返す。失礼だろうか。でも、これが私の精一杯だ。丁寧な言葉は書けない。長い文章も書けない。でもこの十二文字は、一文字も嘘がない。

ここにいたい。兵士たちの傍に。包帯を巻く場所に。

ゼクスの、近くに。

『……十分だよ、イリス。十分』

玲子の声が優しかった。

返信を封筒に入れる手が一瞬躊躇したが、思いっきって衛生兵に託した。メルヴィス家の使いに渡してほしい、と身振りで伝えて。

天幕に戻ると、アデスの手紙がまだ残っていた。花の香りが、薬草の匂いの中で浮いている。

この匂いは、ここには似合わない。

でも私は、ここに似合う人間になった。声は出ない。名前の記録もない。でもここには、私の手を必要としてくれる人がいる。

手紙を畳んで、荷物の底にしまった。捨てはしない。この人の善意は、善意として受け取る。

でも、檻には入らない。


アデスを嫌いにならないでほしいな、と思いながら書きました。

悪意がない分だけ、善意の檻は外からは見えない。アデスは本当に良い人なんです。ただ、「同じ高さで見る」ということを、最初から知らない場所で育った人でもあって。

イリスの返事が長い言葉は書けない。でも一文字も嘘がない言葉を、この子は持っている。

次話からまた動きが出てきます。引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。

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