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千年の呪いで声が出ません。でも死んだ看護師が頭の中に転生してきたので、無言で命を救っていたら副騎士団長に溺愛されました。  作者: 花月 宙


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第15話「庇う代償」

ゼクスの様子がおかしい。

毒の一件から二日。犯人は特定できていない。薬草の保管場所に夜間に近づいた者の証言は得られず、ヘルマンは「偶然の混入」を繰り返すばかり。調査は膠着していた。

だが問題は、そこではなかった。

朝の回診を終えて天幕を出ると、指揮天幕の方から怒声が聞こえた。複数の声。言葉の中身までは聞き取れないが、一つだけはっきりわかる声があった。

ゼクスだ。

怒鳴っているのではない。低く、抑えた声。でもその声が聞こえるということは、相手がそれだけ大きな声を上げているということだ。

『……揉めてるね。上の人たちと』

玲子の声が緊張している。

しばらくして、天幕の布が跳ね上がるようにして開いた。ゼクスが出てくる。眉間の皺がいつもより深い。顎の筋肉が硬く浮いている。怒りを噛み殺している顔。

後ろから、別の騎士が声を投げた。

「副団長殿! 下働きの小娘一人のために、王都からの指示に逆らうおつもりか!」

ゼクスは振り向かなかった。歩き続けた。

でも、その背中が言っている。逆らう、と。

心臓が痛い。私のせいだ。この人が立場を悪くしているのは、私を庇っているから。

『イリス、自分を責めないで。あの人は自分で選んでる』

自分で選んでいるからこそ、苦しい。

    *

その日の昼過ぎ、思わぬ人が医療天幕を訪ねてきた。

グレゴールだった。

騎士団長が医療天幕に来ること自体が異例だ。衛生兵たちが慌てて姿勢を正す中、グレゴールはゆっくりと天幕の中を歩き、負傷兵の顔を一人ずつ見て回った。巡視のふりだ。

私の前で立ち止まった時、低い声が落ちてきた。

「少し歩こう」

外に出る。グレゴールの歩みは遅い。五十を過ぎた体で前線に立ち続けている人の歩みだ。野営地の端、柵の近くまで来て、足を止めた。

城壁を見ている。ルーゲンの灰色の壁が、午後の陽光を鈍く反射していた。

「ゼクスのことだ」

単刀直入だった。

「あの男は、お前のために上と対立している。毒の一件を徹底的に調べろと要求し、王都からの書簡に異議を唱えている」

王都からの書簡。

初耳だった。

「知らなかったか。無理もない。お前に見せまいとしたのだろう」


グレゴールが懐から、折り畳んだ紙を取り出した。封蝋はすでに割られている。

「メルヴィス家から、騎士団の上層部宛てに届いた。読んでみるか」

手が震えた。受け取った紙を広げる。

格式ばった文字が並んでいる。玲子が読み上げてくれた。

『「前線における平民女性の安全を憂慮し──保護の名目で王都への移送を要請する」。要するに、あなたを王都に連れて行きたいって言ってる。保護って書いてあるけど……』

保護。

アデスが馬車の中から言った言葉が蘇る。「お父様に申し上げなくては」。あれは、これのことだったのだ。

グレゴールが城壁から目を離さないまま言った。

「ゼクスはこれを突っぱねた。『医療班に不可欠な人員を抜くことはできない』と。理屈としては正しい。だが」

ゼクスの不在を待って、私に直接伝えに来ている。この人は、ゼクスにはできないことをしに来たのだ。

「あの男は強い。剣も、意志もな。だが強さだけでは、政治には勝てん」

グレゴールの声が、低く沈んだ。

「メルヴィス家は王家に近い名門だ。その要請を副騎士団長の一存で却下すれば、ゼクスの立場だけでなく、ブレンナー家まで巻き込むことになる。あの男の兄たちにも、な」

兄たち。ゼクスに家族がいることを、改めて思い出す。この人は、自分の家まで巻き込もうとしている。私一人のために。

『イリス……』

玲子の声が震えている。

紙に書いた。

──私が 行けば ゼクスにめいわくかからない?

グレゴールが紙を読み、それからゆっくりと首を横に振った。

「行けば、二度と戻れん。あの家の庇護に入るということは、あの家の所有物になるということだ」

所有物になる、という言葉が、頭の中で反響した。

「だが」グレゴールが振り向いた。深い皺の刻まれた顔に、かすかな光があった。「行かずに済む方法もある」

目を見開いた。

「ゼクスのやり方は正しいが、荒い。守りたいなら、もっと賢くやらねばならん」

グレゴールが、懐から別の紙を取り出した。今度は封蝋がついたまま。

「わしはわしで、手を打っている。古い文献の調査だけではない。お前の身柄を正式に騎士団の管轄下に置くための書類を準備している。騎士団長の権限でな」

騎士団長の名でイリスを「軍属」として登録する。そうすれば、外部からの移送要請は騎士団の指揮系統を通さなければならなくなる。メルヴィス家が直接手を出せなくなる。

「時間がいる。それまで──目立つな。ゼクスの近くにいるな、とは言わん。だが二人で上を刺激するような真似は控えろ」

イリスは大きく頷いた。

グレゴールの目が、一瞬だけ柔らかくなった。

「お前は賢い子だ。声が出なくても、聞こえているのはわかっている」

踵を返し、指揮天幕の方へ歩いていく。

残されたのは、メルヴィス家の書簡と、空の紙と、胸の奥で渦巻く感情だった。

守られるだけでは駄目だ。

ゼクスが政治で削られていく。グレゴールが裏で動いてくれている。二人とも、私のために傷ついている。

声が出たら。声が出たら、自分で戦えるのに。

この喉の奥に封じられているものが、何なのか。それを知らなければ、いつまでも守られるだけの存在のまま──。

天幕に戻ると、ゼクスが立っていた。

眉間の皺が深い。でもその蒼い目が私を見つけた瞬間、ほんの一瞬だけ──緩んだ。

何も言わなかった。聞かなかった。

ただ、すれ違いざまに、大きな手が私の肩の上ではずんだ。

大丈夫だ、と。

あるいは──お前はここにいろ、と。

銀灰の背中が遠ざかっていく。

その背中が守ろうとしているものの重さを、今日初めて本当に知った。


グレゴールがようやく本格的に動き出す話です。この人、ずっとすべてお見通しで動いているんですが、それを表に出さないのがこの人の流儀なので、書いていて難しかったです。

ゼクスが政治に弱いのは、武力で解決できないことへの不器用さでもあって、それをグレゴールが補っている関係性が好きです。イリスを挟んでこの二人、実はいいコンビだと思っています。

すれ違いざまの最後の一瞬、読んでくださった方に届いていますように。

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