第六十話 獅子の咆哮、仮面を脱ぐ王太子
エテルは、愛する人が濡れ衣を着せられ、無惨に連行される光景を目の当たりにし、これまでの人生で感じたことのない激しい怒りに身を震わせていた。
王太子としての仮面、理路整然とした思考、それらすべてが沸騰する感情の底に沈んでいく。
(ああ、壊してしまいたい。君を汚し、君を傷つけ、君の献身を泥で塗り潰そうとするこの国も、この血筋も。……ディアナ、君がいない世界に、守る価値など一欠片も存在しないんだ)
彼は迷うことなく、地響きのような足取りでディアナの囚われている地下牢へと向かった。その行く手を阻むように立ちはだかったのは、かつての腹心であり、王国最強の剣客、アルリックだった。
「その格子を開けろ、アルリック」
現れたエテルは、乱れた正装のまま剣を抜き放っていた。いつもは静水のように穏やかなアイスブルーの瞳には、猛々しい獅子の如き光が宿っている。
「殿下……正気ですか!? 相手は王妃様を殺め、国を滅ぼそうとした死神ですよ!」
「黙れ。無知なる正義が! 彼女がその身を削って、貴様らの魂を無(地獄)から救ったのだと、なぜ分からない!」
アルリックは悲痛な面持ちで剣を構え、主君と対峙した。
「……致し方ありません。死神の呪いにあてられた主君を、力ずくででもお止めするのが騎士の忠義!」
火花が散り、鋼と鋼が激しくぶつかり合う。斬撃の風圧が石壁を削り、剣戟の音が地下牢の廊下に幾重にも反響した。王国一の剣客であるアルリック。しかし、今のエテルの剣筋には、彼さえも気圧されるほどの「執念」が宿っていた。一撃一撃に迷いがなく、まるで剣そのものが彼の激情を体現しているかのようだった。
(僕から彼女を奪う者は、神であろうと許さない。……例えこの手が罪に汚れ、王位を捨て、人としての道を踏み外そうとも。僕はただ、一人の男として君の隣にいたいだけなんだ……!)
「……速い!? 殿下、これほどの腕を隠して……っ!」
「アルリック、貴様は『騎士道』という名の形だけの正義に溺れている。だが僕は、彼女という『真実』のために、この国のすべてを敵に回すと決めたんだ!」
エテルの鋭い一閃が、アルリックの剣を虚空へと弾き飛ばす。喉元に突きつけられた冷たい切っ先に、アルリックは呆然と立ち尽くした。
「……殺せ。主君に敗れた騎士に、生きる価値などない」
「殺しはしない。だが、お前の考えが本当に正しいのか、一度よく考えてみたらいい」
エテルは冷徹に言い放つと、腰帯から奪い取った牢の鍵を握りしめ、ディアナの元へと駆け出した。
(待っていてくれ、ディアナ。今すぐその鎖を解き、君を温かな場所へ連れて行く。もう二度と、一人になんてさせない。君の代わりに僕が石を投げられ、君の代わりに僕が呪われよう。……だから、どうか無事でいてくれ!)
「ディアナ! 助けに来た!」
荒々しく牢の扉を開け放った。
けれど、静寂だけが返ってくる。
しばらく、彼はそこに立ち尽くしたまま動けなかった。求めていた温もりが、どこにもない。
(……ああ、嘘だ。嫌だ。どこへ行ったんだ、僕のディアナ。君のいない闇は、これほどまでに冷たいのか。……心臓が、止まりそうだ)
ただ、冷え切った石畳の上に、彼女が繋がれていたはずの千切れた鎖だけが虚しく転がっていた。




