第五十三話 月下の古城、秘密の逢瀬
月の神殿での生活は、思っていたよりもずっと忙しかった。
フェンリス様の指導のもと、タナトスの力を「破壊」ではなく「鎮静」へと導く修行。植物を休眠させたり、人の苦しみを取り去り、安らかな眠りを与えたりできるようになるためのものだ。そして何より、自分と同じ力を持って生まれ、親に捨てられた幼い死神の子たちの世話……。
「ディアナお姉ちゃん、これ、咲いたよ!」
「ええ、上手ね。少しだけ『眠り』を分かち合えば、お花もゆっくり休めるのよ」
子供たちの無垢な笑顔に救われながらも、心には拭いきれない憂いが残る。
(エテル様、無理はしていないでしょうか……。一目だけでも会えば、この不安も消えるのかしら……)
そんな私の祈りが届いたのか。その日の夜、エテル様からの支援物資である苺のコンフィチュールの瓶の底に、小さな銀の鍵と一通の手紙が隠されていた。
『明日の深夜、森の奥にある「沈黙の古城」へ。母が愛した場所で、君を待っている。エテル』
***
「沈黙の古城」。
かつてエテル様の母君、先妃ノエル様が療養されていた場所だ。民の間では「命を吸う呪われた城」と恐れられ、誰も近づかない森の深淵。
ボロボロの修道服に身を包み、私はフェンリス様に内緒で神殿を抜け出した。蔦の絡まる古めかしい城門を、預かった鍵で開ける。冷たい空気の中に、微かにあの日、二人で食べたケーキの、甘いバニラの香りがした。
「……ディアナ」
バルコニーに佇んでいた人影が、弾かれたようにこちらを振り返る。月光を浴びた金髪が銀色に輝き、アイスブルーの瞳は、飢えた獣のように切実で、けれど深い慈愛に満ちていた。
「エテル様……っ!」
離れていた日々の分だけ、胸が締め付けられる。私は我慢できずに駆け出した。エテル様も大きな歩幅で歩み寄り、私の体を壊れ物を扱うように、けれど二度と離さないと言わんばかりの力強さで抱きしめた。
「……痩せたね。ちゃんと食べているのかい?」
「エテル様こそ……。お顔色が良くありませんわ。私のせいで、無理をなさっているのでは……」
「君がいないこと以上の無理なんて、この世には存在しないよ。……ああ、この温度だ。ようやく、僕の心臓が動き出した気がする」
彼は私の三つ編みにされた髪に顔を埋め、深く息を吸い込む。王宮では「死神を追う王太子」を演じ、ここでは「愛に溺れる一人の男」に戻る。誰にも見られることのない、静寂に包まれた古城。
そのままエテル様は私の手を優しく引き寄せ、城の中へと導いた。城内は誰も住んでいないはずなのに、驚くほど綺麗に手入れされている。
「母様が亡くなってから、この城は僕のものになった。だけど、生きていた証を失いたくなくて……母様がいた時のままにしてあるんだ。公務を抜け出して、自分で掃除をしたりもした。君と出会うまでの僕の拠り所は、ここだけだったんだ」
そう語るエテル様の瞳はどこか寂しげで、私はその孤独を包み込むようにぎゅっと彼に抱きついた。
「本当に……会いたかったです……。エテル様、何か食べてくださいな。お痩せになって、心配ですわ」
「そういう君こそ、痩せすぎていて、なくなってしまいそうで怖いよ。……呪印が消えて感覚を取り戻したはずなのに、君がいないと、何を食べても美味しいと思えないんだ」
自嘲気味に笑う彼を放っておけず、私は彼の手を引いて厨房へと向かった。そこにあったわずかな野菜を手に取り、暖炉に火を入れる。
「ディアナ……? どうしたの?」
「エテル様に少しでも食べていただきたいのです! 私の得意料理を作りますわ!」
自慢げに言うと、彼はようやくふっと微笑んでくれた。料理をする私の後ろから、エテル様は離れる気配もなく抱きついてくる。
「エテル様、危ないですわ!」
「大丈夫……。こうして抱きしめていないと、君不足で僕が狂いそうだ」
結局そのままの体勢で作ったのは、野菜たっぷりの温かなスープ。エテル様の隣に座り、スプーンを口元へ運ぶ。
「あーんですわ。これなら食べやすいはずです」
「……美味しいな。君の、優しい味がする」
王宮にいた頃のように手を絡ませ合いながら、私たちはスープを分け合った。神殿での修行のこと、子供たちのこと、そして王宮の不穏な近況。積もる話を終え、私たちは一つのベッドへと横たわる。
「ああ……やっぱり君の温かさがそばにあるのは幸せだ。君がいないと、何もかもが冷たくて眠れないんだ」
「私も、夜空を見上げるたびにエテル様を想っていました。貴方の温かさが恋しくて……」
強く、折れそうなほど抱きしめ合う。
「ディアナ、キスしてもいいかな?」
こくりと頷くと、吸い込まれるような優しい口づけが降ってきた。その安心感に包まれながら、私は深い、穏やかな眠りへと落ちていった。




