第四十三話 深紅の覚醒、断罪の接吻
エテル殿下に正論で論破され、屈辱に顔を歪めたオーレリアン様は、一転して不気味な作り笑いを浮かべながら、一つのグラスを差し出してきた。
「貴方が教会を離れているから、皆、身をもって貴方の大変さを知ったのよ。これは、今までの疲れを癒やす特別な聖水。普通の人なら、肌にツヤが出て活力が漲るわ。貴方、随分とお疲れのようですし……どうぞ?」
その瞳の奥には、濁った悪意が渦巻いている。
(特別な聖水……? そんなもの、この国には存在しませんわ。それに『普通の人なら』だなんて……私が死神だと、この衆目の前で暴くつもりなのね。飲んではいけない……分かっているけれど)
陛下も王妃様も、そして会場中の貴族が私の一挙一動を注視している。ここで拒めば、それこそ自ら正体を認めるようなものだ。
「飲む必要はない!」と殿下が制止しようとしてくれるが、これ以上彼に泥を塗るわけにはいかない。
(もし、これでタナトスが暴走してしまったら……その時は、私一人が殿下を騙していたと言い張って、彼だけは何としても守らなきゃ)
私は覚悟を決め、震える手でグラスを取り、一気に飲み干した。
***
直後、内側から激しい衝動がせり上がってくる。あの森で、殿下を守りたいと願った時と同じどろりとした、圧倒的な力。
(だめよ、ディアナ! しっかりして! ここで暴走させたら、本当の『死神』になってしまうわ!)
必死に精神を統一しようとするが、体は正直だった。私の紅い瞳は、隠しきれないほど燃え盛るように発光し始める。咄嗟に顔を伏せる私に、殿下が耳元で囁いた。
「僕を信じて。……僕を見て?」
「殿下……だめです。今の私は、穢れています。貴方を、傷つけたくない……」
醜く変貌していく自分を、一番愛する人にだけは見られたくない。けれど、殿下は優しく私の顔に手を添えた。
「穢れている……? どこが。僕には、深紅のルビーが煌めいているようにしか見えないよ」
その時、私の左手からついに薄らと黒い靄が溢れ出した。会場が騒然となる。
「なにあれ、黒い霧……?」
「気持ち悪い、まさか……」
悲鳴とざわめきが波紋のように広がり、周囲の貴族たちが一斉に距離を取る。絶体絶命の瞬間、殿下は迷うことなく、その禍々しい靄が出る私の左手を両手で包み込んだ。
「おっと、驚かせてしまったね。僕の彼女への想いが強すぎて、心が『守護の誓い』を刻んでしまったようだ。愛しすぎるがゆえに、魔力のコントロールを誤ってしまったよ」
殿下の完璧なロイヤル・スマイルと、堂々たる「愛の告白」に、周囲の疑念が一瞬で納得へと変わっていく。
(待って、殿下……! しっかり私の手を握っているけれど、このままじゃ貴方の寿命を奪ってしまう!)
青ざめて手を離そうとするが、殿下の指はさらに強く絡められ、びくともしない。
「殿下、離して! 殿下の命を奪って、本当に死神になってしまいます……!」
小声で訴える私に、殿下は慈愛に満ちたアイスブルーの瞳を向けた。
「いいんだよ、ディアナ。僕の寿命なら、喜んで君に差し出そう。……それに、君の力は僕を壊したりしない」
オーレリアンが「そんなわけないわ! この女は死神……」と言いかけたその時、殿下は私の腰を抱き寄せ、衆人環視の中で深く、熱い口づけを落とした。
会場が、水を打ったように静まり返る。
周囲の音が消え、世界に二人だけが取り残されたような錯覚。暴走しそうだった心臓の鼓動が、殿下の唇を通じて静まっていく。
「静かに。……これ以上、僕の『婚約者』を侮辱することは、王家への反逆とみなすよ」
殿下の冷徹な宣言が会場に響き渡る。誰も、何も言えなかった。悲鳴も、囁きも、拍手さえも、その一言の重さの前では意味をなさなかった。
「彼女の銀髪も、紅い瞳も、すべては僕が選び抜いた宝物だ。ヴィタの古い伝承に怯えるあまり、真の聖女を見誤るほど、この国の貴族は愚かではないと信じたいね」
そのまま殿下は私を抱きかかえるようにして、会場を後にした。
嵐のような騒動の中で、私の暴走は、殿下から与えられた「婚約者」という誓いと、温かな体温によって、嘘のように消え去っていた。
殿下には、何も起こらなかった。あれほど恐れていたのに、彼の寿命は少しも揺らいでいない。それは、あの洞窟の夜に感じた「共鳴」が、確かに本物だったという証だった。




